音楽をやっている者にとって、今のここで、現在触れている曲は、当たり前なことではありますが「一点もの」です。代替え品が無い ということ。
当たり前な話のようで、よく考えてみれば、当たり前なことなど一つもない、ということに気がつきました。
それは、その作品の作曲家に焦点を当ててみると、その一回限りの人生の中で生まれた一曲と、私自身の一回限りのこの時間と身体を共にしているということからです。
それはとても新鮮であり、神聖であり、だけど混沌としていて果てしなく、普遍性のかけらもない一瞬を体感することになります。

" ゲシュタルト崩壊 " 寸前をさまようようです。

「当たり前なことなど一つもない」のが、当たり前なのです。

出だしの一音を放つ一瞬は、今のこの時の一瞬しかありません。
明日の練習もあるから。でも、レッスンまでまだ1週間あるから。でも、本番まであと1ヶ月もあるから。でもありません。

脳は妙な言い訳をする。。。

一点ものな自然の身体から脳の中を覗いたら、頭の中身は誤解だらけかもしれません。

明日の練習も1週間後のレッスンも1ヶ月後のステージも、「今」なのです。

明日の練習も1週間後のレッスンも1ヶ月後のステージも、代替えがないということであり、そうすれば、今のこの出だしの一音も、その時の私の身体も時間も、一回限り。


積み重なった紙コップのように、また取り替えればいいや、という訳にはいかないし、取り返しもないし、同じ時間の流れが繰り返されることもあり得ない。

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だからこそ、この一瞬を、決然と。

信じるべきそこにあるたった一つのものは、私の身体。

体内の血液が逆流するかのように身体に帰還する。

そのような状態で楽譜とピアノに触れてみると、
見れば見るほど、音を発すれば発するほど、身体に不思議な感覚が湧いてきます。
新鮮で真新しい感覚です。
ものすごく愛おしく抱きしめているようです。

でもそれを、すぐに手放すこともできます。

次の瞬間にはまた新たな一点ものとしての貴重な音と自分に、出逢えるからです。

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「すべてのことにおいて絶対的な基準は存在しない。関係によって相対的にそのつど、今ここで、新しく、自分の中に生まれる。」

   羽鳥 操 著 『野口体操  感覚こそ力』より










・・・とすると、どこからともなく、
「先々は予測可能」と処理していくことへの不信が。?。
何のために頭はそのような方向へ走っていくのか? と思えば、それは社会の中における評価を求める証しではないだろうか。


理解とは誤解のことであり、誤解以外の理解は事実としては存在しない。
感覚とは錯覚のことであり、錯覚以外の感覚は存在しない。
判断とは独断であり、独断以外の判断は存在しない。
意見とは偏見であり、偏見以外の意見は存在しない。」

以前にご紹介した野口三千三氏のこの言葉も、とても難しいことと思うが、でもしかし、身体主体で感じてみれば、本当に素直に納得できるものになる。

4つのそれぞれの最初に書かれる理解・感覚・判断・意見は、脳内で処理されたもののことで、
誤解・錯覚・独断・偏見は、その脳内で処理されようとする様子を身体からみたものの言葉(言い分)であるようにしか思えない。

とすると、評価を追い求める生き方は、誤解であり錯覚であり独断であり偏見であるから、
身体が「今を生きたい」という目に見えぬ悲鳴を上げるのは、当然だ。

脳も身体の一部だから、当然切り分けられるものではなく、繋がっているべきもの。
そこに必要なのは、その時その時の、身のこなし。無になること。
そしてはじめて「道」が出来て繋がっていく。


私のジストニアは、
あなたの身体は、そしてそれに纏わる人生も、取り替えることのできないたった一つしかないものだから、だから予測不可能な今を大切に生きなさい。
と音楽を通して教えてくれている。

音楽と関わる自分とは何か。

逆に、そんな生き方も経験できるのが、芸術に携わる者の特権であり、そのことこそ「道」である、と ひしひしと想う、今。