子どもの頃どんな遊びをしたか とか、どんなことに興味を示していたか とかいうことを、この歳になっても思い出したり記憶を辿ったりすることがよくあります。
今現在、ものすごく興味があって、未体験で、それはとても新鮮であろうワクワク感が半端ないもの・・・にも関わらず、
はて?どこかで出会っているような?この想いの懐かしさ。
回想にふけっていると、どんどん幼少の頃の自分が思い起こされます。
それは、「表現する」ことの記事でも書いておりましたが、「裏側」ではどんなことが起こっているのか?という、見えない部分への興味です。
幼少時に見つめていたものは、ずっとずっと深いところで繋がってきていて、感覚に物質的な何かがあるとすれば、血肉のようなものに刻まれて、今の自分が形成されているのかもしれません。
あるサイトで「文楽」の奥深い世界を目にしました。
文楽って何だったっけ?落語とも歌舞伎とも違うはず・・・
そんなレベルから始まったその内容は、そんなことなどどうでもよくなってしまうくらい、目から鱗なものでした。しかし、音楽の表現として鏡のように写してみると、すべてが共通していて、私の想いを根付かせてくれるものだったのです。
浄瑠璃太夫も人形遣いも、
「武道」の道でも、
デザインというジャンルにしても、
そして「音楽」という芸術も、
達人と言われる(言われてきた)人々の道筋には、裏側に存在するものへの感覚能力が極められている。
凛々しくも華やかな世界、しかも江戸の時代の文楽といえば大衆向け娯楽であったにも関わらず、その極められた本物の芸術がそこにあり、それを今も昔も、どの分野においても、人々は求め続けるのでしょう。
いや、感性の喜びを必要とするのが本来、人というものなのでしょう。
その文楽が庶民のためのもの、 というそういう意味では世界において類を見ない、日本の伝統芸能の質の高さ・日本人特有の、繊細で鋭敏な目利きの質の高さが伺えます。
本物の芸術とは、無条件にこちら側の心身を透明なものにし、その微細な感覚が無条件に本能を刺激し、邪念や欲とは無縁な自分・内なる喜びが湧く豊かな自分いること その事実を存分に与えてくれる。
ふと我に返り・・・
人形遣い かー。
そういえば、人形劇観るの好きだったなぁ。微動打もせずよく見入ってたなぁ。
操る黒子の人たちの様子が知りたくて仕方なかった。
紙芝居なんかも、芝居してるおっちゃんの顔ばっかり見てた。
紙芝居も、ペープサートとかも、自分で作ってやってみたりしたけど、タイミングとかがすごく難しいという記憶が。
そういえば!
二人羽織が大好きだった!!
大人のドンブクを着て、裏から手を出して、兄弟や従兄弟や幼なじみを引き込んで、口の中にミカンとかせんべいとか放り込んでた。ストローでジュースを飲ませたり 笑。
イマドキの子どもたちは、二人羽織なんかやったことあるんだろうか?
いやたぶん、二人羽織すら知らないだろな。
・・・などなど、面白くも不思議な思い出やなんかに、再びふけ入る私。
黒子
ピアニスト=黒子
人形と曲節
作曲家が生んだ作品=人形と曲節
(*これの中身は、前回「具体と抽象」の最後で呟いた内容に至ります。)
文楽が・・・観たい・・・観たい!
文楽を、観に行こう!!
が、、、時すでに遅し。
東京半蔵門 国立劇場。4日の第二部「曽根崎心中」が観たかったのですが、チケット発売と同時に完売(⁉︎)だそう。
そのようなご事情とは知らずに(←爆発的人気!)、思い立ったらいつでも観れるものと、安易な考えでした。
あぁ、、、そうなると、次のチャンスを狙うためには ネット予約?
指をくわえてチラシを眺める私でございます。。。
それにしても、
冒頭の話に戻って。
子どもの頃の遊びと言えば、今でも好きなのは、
「オセロ」。
強い人としかやらないので自分は弱いが、いわゆるあの 裏を読む 勝負が好きでたまらない。
まぁ、これは完全に頭の作業であるけれど、
雑談しながらポーカーフェイスを装いつつ、裏の裏を必死で読み取り、それを実行してみればどんな結果になるのか?それが楽しくて仕方がない。
その読みが度を過ぎると、あぁ・・ここで失敗するんだな、とか、どこかで純粋さも必要。と学ぶ。
そういう意味では、単純でパパッと要求される「ジャンケン」も同じ。
違いといえば、オセロは完全に決断してからの実行となるが、
ジャンケンは、辛うじて筋肉の意思も参加される。寸前で変更可能ということ。筋肉の意思は、動物的 勘。
呑んでて酔っ払いな日にゃ、無性にジャンケン恋し。←?
で、ハマりまくる。
「トイレに行ってくるー。」に対して「あたしも行きたい!」となれば、
せーの!と勢いよくジャンケンが始まる。
残りのツマミひと切れ、誰が食べる?で、
ジャンケン。
ギリな状況(トイレ)なのに、「3回勝負。」と私が言った日にゃ、相手はいい迷惑だ。
でも勝たないことには、大変な事態になる!
冷え切った ひと切れのツマミの身にもなれば・・・
いい迷惑だーね。
さっさと食べてくれよ 泣、と。
でも、読みの勝利と共に食すれば、倍美味しい♡
時には、おゆずりしたりされたりもするけれど・・・ね。
ピアニスト=黒子 と書いたけど、文楽の世界では、主遣いは顔を出す。主役だから、という単純な理由ではない、ということらしい。
顔を出しても黒子に徹することができる という意味であり、達人のなせる技がそこにあるからこその、黒装束は不要、という意味。
音楽の世界で言えば、まさに、「表現する者としての演奏者」の、在るべき姿だ。
どんなに豪華でも派手でも、主役である作品の邪魔になるような自我や欲(←舞台での主役は自分、などという取り違えた意識)は無く、自分は音楽そのものである という事の証し。それは、虚空のものを実体化するというレベルであり、それを見せるというレベルに達して、そして舞台に立っている。
という認識の上に成り立つ、この華やかな衣装である。
( "隠れ蓑" としていた過去のステージの自分が恥ずかしい・・・。)