感覚を伴わず思考のみで理解しようとする時、現実味の無い内容になってしまい、尚且つ、その状態で実行しようとするならば、ある意味危険な要素も内包しているかもしれません。
言語化することの難しさ・厳しさに・・やっぱり毎回、悩む。。。
頭の良い大学生のレッスンをしていて、気づいたことがある。
頭がいい というのは、所謂、お勉強が優秀だということだ。
その生徒は、礼儀正しく、素直で真面目であり、謙虚であり、こちらの話をきちんと聞く姿勢と それを記憶しようという努力を惜しまず、そして、
楽譜上に対して ある程度の疑問もきちんと持ってくる。
しかし、大きな欠点がある。
・・・でもしかし、それはその生徒の、最大の長所でもある。世間に身を置いた時の最大の強みであり、仕事や、人との繋がりを得るために欠かすことのできない大事なことを取捨選択できる能力。
欠点として捉えることとしては、もちろん、音楽的・技術的表現を目指すこと においてである。
「頭での具体と抽象」は自由自在に扱えるが、
「身体上での具体と抽象」が、ものすごく不自由なのである。
ただ単に不器用だという話ではない。
主観を伴った演奏、つまり具体の前には、必ず抽象化という身体の作業を存在させなければ、
結果という具体は見えてこない。
そこにグッと焦点を当ててレッスンする私には、
「頭で考える抽象と具体」は結局、固定観念を生み出すだけであって、いわゆる頭を働かせることにのみ労力を費やす練習は殆ど必要・重要ではなく、イマジネーションの具体を必要としているのみであり、
要するに思考は二の次な状態である。
その日のレッスンは、客観的作業の繰り返しの末、一瞬、本人自らの "体内の意思" が垣間見れた瞬間があった。そこをクローズアップして褒めたのだ。そして、
「今、身体が考えて音を出したね」ということを伝えたら・・・
キョトンとして
「え?身体が考えた??・・・んですか???」
という返事が返ってきた。
笑。
それ以前に、褒めた中身すら、分かってない。
こりゃ手強いぞ。笑。
たとえば他の生徒だったら、言葉で伝える前に既に表情に表れる。
あ・・・こういうことなんだ♡
とか、
あ・・・今の、自分じゃないみたい、でもなんかイイ♡
とかいう感じの、パッと明るい、なんとも言えない表情をするからだ。
「んねっ!これね、これだよね♡」
と言わんばかりのアイコンタクトをとり、2人でニンマリする。
だから、その学生には意表を突かれた。
いやいや、
" 身体が考えるって、どういうことだろう? "
そんな疑問が芽生えたこと自体、快挙だ!
そして、私という人間にきちんと向き合ってレッスンを受けてくれた証しでもある。
その快挙に対してここぞとばかりに、
目に見えない世界・頭では理解し得れない世界の存在意義を無限に伝えたい欲求はある。
しかし、無限だからこそ、「じっくり」だ。
一つ一つの作業に、この上ない喜びと愉しみが身体から湧いてくるために。。。
そして、優秀かつ素直なその生徒の脳内がパンク?しないように。。。
これは私にとって大きな気づきであり、私自身を成長させてくれる一つでもあり、この事実は大切に慎重に持ち続けなければならない。
レッスンの醍醐味は、こんなところに隠れたほんの小さなものなのかもしれない。
〜レッスン風景〜なんぞとお題にしつつ、実際 なんの曲を触っていた時の話か ということが気になる方もいらっしゃるでしょうか・・・
まぁこれは、現在、自分の書いているブログの内容的に、時には邪魔になることもあるので、バロックとだけ書いておきます。もちろん初級編です。
邪魔 というのは、
ジャンルとか、難易度とか、有名な曲だとか、それに対する自分の技術的レベルだとか、そういうものにこだわる以前の(もしくはそういった垣根を取り払い)、もっと内面の本質に近い世界を書いていこう、という目的であるから、時には 本末転倒になってしまう。
(ちょっと神経質かもしれませんが)そういう意味が元で です。
逆を言えば、
ジャンルも、時代別も、その中でさらに絞った曲目自体も、具体化されたものとしての目に見える結果である。という事実がそこにあるに過ぎない。
・・・という見方をし、その目の前にある事実を如何にして身体的な内側から表出し実際の物にしていくか?
記事を書く上で、それを紐解くための過程に重要性を持ちたい
との願いが私の中にあるからです。
前述の「長所」として捉えたこの生徒の 脳内の具体と抽象。それに 身体的な要素が実感され加われば、人としての素晴らしい成長が見られるかもしれない。
人と人は、ただ繋がっただけでは成長できない。人間同士の心の触れ合いには、五感が伴うから。
そういう意味でも、私たちの出会いは必然だったのかもしれません。。。