今日は前回の続きのような内容になりますが。
「一事成れば万事なる」
フォーカルジストニアのピアノ練習でもっとも必要で信じるべき言葉のひとつであると思います。
練習の弾き始めに、またはそれ以前の椅子に座る時、暖かく穏やかな気持ちとスッキリとした透明感のある気分であれば、
今日は柔らかい♡ と感じ、
アイディアも湧いてきて、
ごく自然に鍵盤に触れ、曲を感じるままに指が動いている。
・・・このまま永遠に・・・この幸せな身体と空間を・・・どうか永遠に・・・
と!
思うや否や、いつ、どこで、どのあたりから、
悪魔が微笑みだすのか?(笑)
そう、確かに、そう願うような気持ちになった時から。
前回、弾きすぎることの危険性にふれましたが、では弾きすぎないためにやることは?
真面目にはっきり言います。
弾くのをやめること。
とても辛いことです。
だって、練習しようと思ってピアノの前に座ったのですから。
効率よく練習するということは、
いつ練習をやめるのかを知っているということ。
「あ、この感覚を練習すれ(せね)ば!」とかの脅迫じみたものや固定観念だったり、
前回書いた「もう一度再現してみたい!」とかの欲・奢り だったり がチラついたら・・・
アウト。
悪魔の微笑を断ち切るにしても、従ってしまったにしても、
ここに気づいていけるかどうか が肝心。
練習で あなたのベストを尽くすために、ベストのコンディションを創ろう。そして、一度それを達成できたら、それを捨てよう。
ベストの状態で練習をやめることができれば、練習全体の印象が完全にポジティヴなものとなり、翌日の成功への可能性がふくらむ。
「一事成れば万事なる」 陳腐な言葉の中にも真実がある。
音楽家のためのアレクサンダー・テクニークより
(陳腐な言葉とは思わないけど 笑 )要するにこういうことなんだと思います。
身体なんて、毎日違う。違って当たり前。
昨日とは違う身体や精神のコンディションでベストを尽くし、その身体から納得のいく音楽が溢れてくることは、奇跡であり、今日の新しいコンディションと新しい感覚だからこそ実現したもの。
これは、「だから明日はどうだか分からない」というネガティヴな考えではなく、
明日のまた違った身体と意識と感覚・直感にも、その可能性がある ということにつながるのです。
一度でも、何度でも、そのつど、捨てること♡
だからと言ってあなたの中の音楽性までが失われるわけではないのです。
これはジストニアにも そうでない方にも、共通して言えることです。
そして、結果の良し悪しにも関係なく、
捨てて流していかないと、新しいものは入ってこない。
ピアノ(楽器)に触れること・譜面に向かうことは、常に常に真新しいものに触れる体験のようなワクワクしたもの・・・未知なるものとの触れ合い・・・でなければなりません。
このような中からこそ、
最善を尽くす。しかしそのつど新しく選択していく。
という、真の練習のためのテクニックが身につくのではないでしょうか。
ここで取り違えてはいけないことは、テクニックの練習、ではないということです。
テクニック自体が先にあるわけではなく、それどころか、もともとそんなものさえ存在しない。
この段階で、やっと、本物の練習の仕方・方法 という話が浮上してきます。
一つの練習を通じて基本的な原則を学ぶことのできる人は(一事成れば)、すべての練習をこなしたのと同じことを学んだこと(万事なる)になる。
しかし、ただ単に練習するだけの人は、" 永遠に " 練習の方法を学び続けなければならないだろう。
・・・恐いですね〜。テクニックの習得のため!と思い信じ込んでしまう、この恐ろしさ(笑)。
「一事成れば万事なる」の裏には・・・
私にとって 練習のためのテクニック の中身が、わんさかゴマンと、芋づるのように潜んでいるイメージだ。「ひゃっほぉー!大収穫ぅ〜♪」と。あくまでも私のイメージですが(笑)。
しかし、モグラにかじられたような芋もあったり、調理に困りそうなドでかい芋もあったりで、
リスクは付き物なのです。
でもね、それだから リスクがあってこそ、芋掘りって楽しいですよね。「あちゃー、食われてんじゃん。」とか、「こんなデカいの、どうやって包丁いれる?」って。だんだん、芋掘り自体が楽しいのを通り越して、ワクワク真剣に芋掘りしている自分に楽しくなってる♡
その、練習のプロセスが楽しいし、そんな風にリスク(失敗)さえ楽しんでいる自分が、楽しいんだな♪ これが♪♪♪
だって、真剣に観察してみたら、モグラのしわざじゃなかったりするワケですよ。