習慣とは恐ろしいものです。

治療とともにカラダの改革に勤しむ日々も2年半を過ぎて、未だその悪習慣に、ジストニアの私はハッとさせられます。

それは「座る」という行為、まさにその瞬間から。

全体的に、座って何かをすることが、とっても苦手。
ピアノ弾きにとってあり得ないくらい致命的(笑)。


まぁピアノの話は後にしておいて・・・


ふだんの生活の中で、私が「座る」といえば、記憶が確かならば?ピアノ以外では、
食事の時と、お勉強の時のみ。
それ以外は、ほとんど立ってるか、動いてるか。

そもそも「座る」という行為自体、ジストニアの身体をどう使っていいのか分からなくなり、症状は出てくるわ、首も背中もお尻もつらい。
お勉強や読書の時や、iPhone手にブログに向かう時は、それこそ寝っ転がったり、テニスボールのマッサージをしたり、バランスボール、気功のゆらゆら・・・
んーなんと言うか、子どもみたい。
とにかく、次から次へと鎧を被せられていくようで、
じっと座って居られず。
はたから見たら、かなり落ち着きないと思う。


それで、何がつらいって、、食事。

まさかね、寝ながら食べるわけにいかないし。

お腹空いて夢中で食べる時ならなおさら、目の前のご飯に集中すればするほど、

首が縮まり、顎が突き出て、背中から肩から前傾になり、
気がつくと、すべて筋緊張しているという最悪な習慣が!

顎がガチガチになって、喉も通らなくなって、お茶のコップも掴むことができなくなって、
疲れ果てて、

食べることを

あきらめる・・・

までいかなくとも(とにかく食べないかんので。)

一度、箸を置いて、虚ろげにポカン・・とする。

要するに、「食べ続けること」を、「あきらめる」んですね。

" 頑固おやぢ系ジストニア " タイプの私には、こんな些細なことがとっても重要。

椅子に座る時点で、

「さ、食べよう食べよう!」

ではなく、

「ごはん、食べないよ・・・」

なんです。
(食欲もクソもあったもんじゃない、しかし、箸を動かしたり、お茶碗もったり、口に入れたり、噛んだりの 細かいすべてを、カラダと対話しながらじゃないと身体が硬直していくから、仕方ないね。)

・・・首の後ろを弛めて楽にして、何気な~く箸を持って、モリモリ感を完全に捨ててみれば、結果、
ゆっくりと噛み、味覚・嗅覚が先行して食べているような感覚になる。


ピアノの前に座る時も同じ。

「さぁ、練習するぞ!」

は、以ての外な、自傷行為に近い。


「弾かないよ・・・」



足を弛め、足裏・座骨を感じ、骨盤・お臍まわりを弛め、
頭の重さでうな垂れて、頸椎を伸ばしてあげる。
脳内が目覚めているか確認し、胸椎を少しずつ上向きに、ゆっくりと。
最後に頭を背骨のてっぺんの行く先に、トン・・と乗せてあげる。
胸鎖関節が開き、肩が横に関節から離れていき、肩甲骨がフワっと感じれて・・・


カラダが弾きたくなったら、鍵盤に触れてみる。


あとはお分かりですね(笑)。

お耳が要求するままに。。







しかーーーしっ!!





・・・精神的悪習慣とは、恐ろしいものです。

「こうあるべき!」

が、邪魔をする~。



どういうことか・・・
正しいと思うことを選択しながら弾いていくこと自体が、そう・・・結果を求める行為に繋がり、

エンド・ゲイニング  そのもの。

これは誤りです。

アレクサンダーで言う、ミスユース (誤用)。



この悪習慣にとりつかれてしまったら最後・・・

「さ、寝よ、昼寝昼寝~。」

と、なんともまー、貴重なピアノの時間をあさっさりとあきらめ、捨ててしまうしかない私、、であります。



『音楽家のための アレクサンダー・テクニーク入門 』より

習慣的な動作( 座る など )は、ある特定の思考に反応して起こり、ある特定の感覚を伴う。→行為A
それに対し、非習慣的な動作( 膝を曲げて身体を下へ移動させながら、身体に上向きのエネルギーを与える など )は、まったく異なる思考に反応して起こり、まったく異なる感覚を伴う。→行為B

先ほどの私の話で、
行為Aの、ある特定の思考というのは、「食事をしよう」という思考。
それによる、ある特定の感覚というのは、目の前のものに集中してしまうが故に筋肉が固まっていくマイナスな感覚。

行為Bの、まったく異なる思考というのは、「食べないよ」「弾かないよ」という方向性( 方向づけ )。
頸椎・胸椎・骨盤・頭  云々の、心地よいスッキリとした座り方を施した、
それによる、まったく異なる感覚というのは、味覚・嗅覚、聴覚・触覚という五感を伴うもの。


行為Aは本質的には誤りなのだが、感覚としては正しいと感じる。
逆にBは正しい行為なのだが、間違っていると感じる。
行為の決定的瞬間には、人は例外なく、正しいことではなく、自分にとって正しいと感じることをするほうを選ぶのである。
そうすると論理的な解決方法としては、正しいと思うことを捨て、間違っていると感じるほうを受け入れるということになる。

これは、なるほど!です。
たかが「座る」「食べる」行為ひとつとってみただけでも、どれだけ囚われの身と化しているか・・・


試みることをあきらめる                  

ヴィクトリア時代のモットーは、
「上手くいかないのなら、何度でもトライしなさい」だった。

それに対して↓

このモットーをアレクサンダー流に言い換えて、
「最初に上手くいかないのなら、2度とトライしてはいけない。少なくとも同じ方法では絶対にトライしないように」
(パトリック・マクドナルド)

私たちは、上手くいかないのは努力が足りないからだ、と思うものだ。しかし、いつかは上手くいくと信じて同じ動作を繰り返し試みる(トライする)ことで、逆にミスユース(誤用)がどんどん増えていく。


日本古来の頑固おやぢ的な、←あたし。
七転び八起き、三度目の正直、なんて
ジストニアにはあり得ない。

七転八倒、二度ある事は三度ある。である。


結果を出したいとか、正しいことをしたいと思って何かにトライすることは、実は、" 失敗への近道 " なのだ。
正しい決定をできるだけの経験をもっていないなら、正しいと感じることは実は間違っている、と認識すべきなのだ。
そして、一度に上手くやろうなどとは思い違いもはなはだしいと悟ったほうがいい。



トライすること自体は、なにも悪いことではないです。
その行為の中身に使われるエネルギーが、漏れていたり、間違った方向に使われていないか、

誤りを認める能力 があってはじめて、意思の力 が光り輝くのだと思います。


「まあ、力を抜いてもう一度試してごらん」とよく言われる。しかし、動作が上手くいかなかった時と同じ意思や願望をもったまま 力を抜いてみても、全体の意図がますます曖昧になるだけで、動作が上手くいくはずがない。

本当はこう言ってあげるのがいい             

「もうトライするのはやめて、何か全然別のことをやってごらん。」







結局、力を抜く  話になりましたね(笑)。

今日のお話も、大事な視点のひとつであります。





そういえばさっき、恐る恐る体重計に乗ってみたら・・・

嗚呼・・・1キロ減・・・



もっとカラダ楽~に、楽しく食事ができるようになりますよ~に~