前々回の気功のお話から、
「からだの自然」が目を覚ます ことは、
ひとりひとりが「自立」していくこと。
そして「主体的」に動き、
本当の「自由」へ向かう。
ひとりひとりが自立している ということは、そこに、各々の、
「個性」が表れるということ。
その「個性」ですが・・・
自分自身の本質という意味では、
経験から得た趣旨・嗜好などからくるものとは違うと思うのですね。
知らず知らずのうちに纏った奏法の癖など、自分では良かれと思って貫いていることでも、それはカラダが要求する自然体から生まれたものか?
本質的な自分の個性とは、意識しなくとも、内なるカラダから湧き出るもの・醸し出されるもの のような気がするんですよね。
外的要因からくる個性は排除し、流しながら、「からだの自然」を大事にすること。
そこから醸し出された「人とは違う本来の自分」が嬉しくて大好きになる・・・
そんな風に めぐりめぐって繰り返される・いつも流れていることが大事かなと思います。
羽鳥 操 著 『野口体操 感覚こそ力』より
〈動きからみた生きものとしての人間存在〉
差異こそは、存在・認識・思考・表現の本質である。
差異こそ「個の自由」の前提である。
したがって、差異、そのこと自体を尊重しなければならない。
簡単な話 ではないけれど、あまり難しく捉えずに、単純に考えてしまえば(笑)、
要するに、
私という人間が存在する
あなたという人間が存在する
その大元って、こういうことなのかもしれません。
やっぱり、カラダの内なる動きからの視点で どんどん感覚をインプットしていくべきだと思わずにはいられないんです。
カラダが自由
ココロが自由
音楽するにも、何か好きなことするでも、その物事から与えられているだけでは、心からの自由である 喜び や 感動 は得られない気がします。得られた感があっても、その場の嬉しさだけで、なんだかすぐ通り過ぎて去っていってしまい、次また得たいと思っても、なかなか蘇ってくれなかったりするわけです。
" じわりん "・・・とこみ上げるカラダの嬉しさがないんですよねえ・・・
なんだか振り返ってみると結局、物心ついたときから、
" 頑張り "に、いつも意識を向けて立ち向かっていたような気がする。
気力が無くて、だらりんとした時も、なんか悪いことしてるみたいな・・。
" だらりん・・・ " の次は
" じわりん・・・ " が欲しい(笑)。
常に自然に 自立していて
自然に 主体性を持っていて
自然に 自由でいられる
この感覚を想像した時に、やっぱりジストニアとしては、
「力を抜く」ということは、どういうことなのか?
吐き切り流し切った中から、主体的で自立したチカラが湧き出る・・・
この意味・本質をカラダが知りたい。という想いに、また巡り巡って たどり着くんです。
「力を抜けば抜くほど力が出る」とはどういうことか?
「力を抜く」ということを主題に教えられたことがない。
「力を入れる」ことの本質を考えさせられたこともない。
ただ「頑張れ」と言われ続けただけ、という人が多い。
「力を抜く」という事実と実感が分からなければ、「力を入れる」という事実と実感も分かりようがない。
この野口先生の言葉に、ハッとさせられた私です・・・
頑張り続けてきた自分は、
「あんまり頑張り過ぎないで!」とか、「十分だから、もう頑張らなくていいんだよ。」とか誰かに言われても、
素直ぉ~に、
困ってしまう(笑)。
「頑張らない」こと。
これすら、実際どのようにしたものか 分からない、ということなんですよね。
・・・
最後は、なんだか
煮え切らない話となりまして、、
申し訳ございません

「力を抜く」
半永久的なテーマでもありますので、今後も時折顔を覗かせ、のんびりチラチラ語ってみたいと思います。
ということで、今日のところはお許しを。。。
次回は、
「張り子の虎」について。