見知らぬ街で旅をしていたら、急に体の奥に変な痛みを感じた。
幸い、すぐ近くにクリニックらしきものがあるので診てもらうことにした。建物に入ってみると、どうやらここは親子二代で運営している所のようだった。待合室に入ってみると、すでに患者が一人いた。
そのときちょうど、いかにも何十年も経験のありそうな50代の医者と、働き始めて5年ほどであろう若い20代の医者が出てきた。先に出てきた50代の医者は自分より先に来ていた患者を案内し、あとからでてきた20代の医者が自分のほうにやってきた。経験は積んでいるようだが、やはり老練な医者に比べるとこっちのほうが少し落ち着きがないように思えた。
「どうせ診てもらうなら経験豊富な医者のほうがよかったなぁ」と思った。
「経験」はどこまで大事?
似たような状況であれば、上の話の主人公と同じような思いをする人は多いだろう。若い医者も年を取った医者もどちらも医師免許を持っていて必要な知識を身につけているであろうことには違いないが、どうせなら経験をたくさん積んだ医者のほうが突然訪れた痛みの原因を突き止め、適切に対処してくれそうなものである。医療に限らず、なんとなく「やっぱり経験を積んでいるプロフェッショナルのほうがいいんじゃないのか?」と思っている人は多いと思う。
医療における「経験」の価値
ただ、少なくともNiteesh K. Choudry氏らの2005年のメタ解析の報告からすると、安易に経験年数を積んだ医者のほうがいいケアをしてくれるとは言えない。それどころか、この解析に含まれた62件の世界中の研究報告のうち32件においては、全体の52%においてはかかった医者が経験豊富であればあるほど診断・治療の質を表す指数全てが悪化し、残りのうち更に13件においては経験豊富な医者の治療・診断のほうがやや悪かった。残りのうち13件においては経験と診断・治療の質と経験年数に相関関係は見られなかった。経験を積めば積むほど診断・治療の質が改善したと報告したのは62件中たったの1件(小児の糖尿病の診断)のみである。
つまり、62件のうち45件(72%)においては経験が診断・治療の質に何らかの悪影響を及ぼしている、ということになる。もちろん、全体の傾向が「悪化、良くて停滞」であるからと言って特定の医者が必ず経験を積むにつれて悪化しているという結論にはならないが、確率的に言えば先ほどのクリニックの二人の医者だったら若い医者のほうが的確に最新の診断基準に基づいた問診をしてくれる可能性が高いことになる。
教育における「経験」の価値
僕の専門は医療ではなく教育だが、教師にとっても一概に経験が多ければ多いほどいいとは言えない。教師として働き始めて最初の数年間の経験はとても価値のあるものだという研究報告は多い。例えば、2003年にJennifer K. Rice氏は教師は最初の数年間は教師はとにかくいろいろやってみることによって比較的わかりやすく上達すると報告している。ただ、その後のキャリアについてはあまりいい報告はない。多くの場合、教える上手さは停滞、あるいは減退していくとの見方が強い。様々な解析手法を用いたMatthew A. Kraft氏らの2015年の研究報告には、教師の教える上手さには最初の5年間に一番大きな上達が見られ、その後は上達速度は基本的に減り続けていくとある。数学教師だけ見るとキャリアを通して上達し続けるのも可能という傾向がみられるが、国語の教師には同じような傾向は見られない。これもまた標本の傾向であり個人の傾向ではないため一概に経験を積んでも上達しないとは言えないが逆に経験を積めば必ず上達するとも言えない。
ITにおける「経験」の価値
医療と教育は人と関わるという面では似ているがそのほかの面では少なくとも表面的にはかなり違う職業だ(僕のとある友人はどちらも相手の立場でものを考え、人の心を動かすという面で同じだというかもしれないが)。にも関わらず、経験年数とスキルが比例していないという研究報告が多い。ほかの業種でも同じような傾向が見られても不思議ではない。プログラミングにおいても経験年数と生産性に相関関係は見られず、さらには最も仕事ができるプログラマーは最も仕事ができないプログラマーの10~25倍価値を生み出しているという研究報告もあるほどだ。つまり、経験年数を見ただけでは凡人と凡人の25倍仕事ができるプログラマーの区別がつかないということになる。そこまでいくとプログラマーに関していえば経験年数には指数としての価値はないのではと思えてくる。
経験がもちろん大事な業種もある
その割には、経験を積んだ人のほうが仕事ができるのだろう、能力が高いのだろう、という見方は根強い。たいていの仕事においては経験年数を積めば積むほど給料も上がっていき、患者・生徒・顧客から向けられる尊敬も増える(らしい。僕はまだ20代なのでその年齢域には到達していないが)。これは、我々の一般的な上達の経験に基づいているところが大きいと思う。
例えば楽器演奏においては、トップの人たちは子供のころから練習を続けてきた人ばかりであり、ピアノを弾く中学生を何人か集めたら2年弾いてる生徒と8年弾いてる生徒の間には大きな差が見られることだろう。スポーツにおいても、一般的に言えば小学生のころからやってきた高校生と高校に入ってきてから始めた高校生を比べたらスキルに差が見られるだろう。経験年数が大事な分野は確実に存在する。ただ、いくつかの分野において経験年数と平均練度が比例しているからといってすべての分野においてその関係が成り立つものと見なすのは上記の研究報告などを見てもわかるように早計なのだ。特に一般人・一般的な職業に関していえば経験年数にどこまでメリットがあるのか怪しい。
ただ年数だけつぎ込んでも大して上達しないのは、おそらく読者の方々にとっても職場であたりを見回せば明らかだろう。少なくとも僕の職場では特に顕著な相関関係は見られない。ヒヨっ子教師なのに生徒に異常なほどの成長を促せる教師もいれば、何十年も教壇に立っているベテラン教師なのに生徒に嫌われ生徒のやる気を毎日削ぐ教師もいる。また、生徒のほうを見ても年数だけつぎ込んでも意味がないのは明らかだろう。9年間(アメリカだと12年間)義務教育を受けたからといって、「学業のエキスパート」になったといえる生徒は一体何人いるだろうか? 少なくとも僕は高校を卒業した時点では特に学びのエキスパートではなく大学で苦労もした。
特に社会に出てからの仕事に関しては、人とは、たいていある仕事・勉強が程度でき、クビ・退学にならない程度まで上達したらその分楽をしたがるものである。
Deliberate Practice
Eric Andersson氏は、一般的な傾向に真っ向から逆らいスキルアップし続ける人材の研究をしてきた。彼は著書「Peak: Secrets from the New Science of Expertise」(和訳版。アフィリエイトではない)において、上達の鍵は「Deliberate Practice」にあると説明している(上記の翻訳を手掛けた土方奈美氏は「限界的練習」と訳している。意味合いは大体あっているが、「Deliberate」には「意図的」という意味も含まれている)。出来るとわかっていることをやるのではなく、いまギリギリできないことを特定し、足りないスキルに負荷がかかるような訓練を設計し、遂行する、というものである。ただなんとなく練習するだけではだめなのだ。自分が苦手だとわかっているケースの対処を苦手じゃなくなるまで反復練習し、克服したらすぐまた次の苦手なものを克服しにかかる。たいていの人が上達しなくなるのは、ある程度スキルを獲得したら以前はできてた限界的練習ができない、あるいはただやらないためである。
できない
仕事の環境によっては勝手に自分の仕事の内容を以前よりちょっと難しいものにしてはいけないだろうし、雇い主としてもある仕事をある能率でこなしてもらうために雇っている人物が急に慣れない仕事ばかりやり始めたら能率が下がるので迷惑と感じるだろう。たいていの業種においては、「基礎」にあたる部分を身につければある程度仕事ができる。例えば、一般的な商社などでいえば新人研修を終え、いくつか案件を自分でこなせるようになった状態だ。そして、雇い主もそのレベルの能率で十分満足していて、逆に下手に苦手な仕事に手を出して能率を下げてほしくはないと思っている雇い主も多いだろう。
また、たいていの職種においては「基礎」から先にどうやって進めばいいのか不明であったり、少なくとも音楽やスポーツなどに比べるとスキルアップを体系的にできるような体制が整っていない。医師や教師など、いい例だろう。研修やカンファレンスなどで見聞を広めるのは楽しいが、特に効果があるという研究報告はない。プレゼンなどに出席するだけでは、Deliberate Practice体験はできない。多対一で情報を伝える形式だと、必然的に観客一人一人の限界に合ったフィードバックは提供できないため、どのレベルに合わせても観客の多くにとって利益のない体験になってしまう(尤も、これは学校教育全般に関しても言えることだが)。
僕自身、教師として数年間いろいろ試しある程度教えられるようになり、教える上手さに関しては校内一位、二位を争えるまでになったが、去年頃「ここから先、どう上達していけばいいのだろう」と思い苦労した。幸い、うちの学校は教師の提案に対して寛容的なので、僕は今年は教えたことがない文系のクラスを受け持つことができた。慣れない科目でとても楽とは言えないがその分発見や学びも多い。そして、この文系のクラスを通して学んだことを応用することによって、本分である理系のクラスもさらに改善することができる。また、普段は英語で教えているが、日本語でも教え始めた。文系のクラス同様、慣れないがその分学びも多く自分の考えや手法が洗練されていくのがわかる。
やらない
また、Deliberate Practiceが行われない理由として、この限界的練習、かなり面倒くさいというのがある。相当面倒くさい。ただでさえ出る必要のない会議に出席させられ仕事の根幹に関係ない雑務をやらされ長い時間拘束されている現代の社会人にさらに自分の限界を常に超えられるような訓練を探せというのも無理がある。
実際、体調が悪い日は文系のクラスも日本語で教えるクラスもものすごく面倒くさいと感じてしまう。常に自分の限界を試すのには相当な集中力と体力が要る。その分いろんな楽しみを犠牲にしなくてはならないかもしれない(必ずしもそうとは限らないが)。周りの同僚がこういったことをやっていなかったり、自分の人生においてDeliberate Practiceをやる経験が少なければたいていの人が限界的練習に挑まず「そこそこ」の練度で上達をやめるのもうなずける。
ただ、そうして居心地よく仕事をしている年数、限界的練習にあたらない経験年数はスキルに関してはノーカンだということを忘れてはならない。
Deliberate Practiceのすゝめ
もちろん、みんながみんな仕事における上達に執着すればよいのかというとそうでもないと思う。そもそもそんな仕事のみに熱狂している変態ばかりの社会に僕は個人的に住みたくはないというのもあるが、人生の意義は仕事以外にもあるはずだ。ただ、自分の(仕事の)スキルの上達に取り組んでいると、いわゆる「フロー」状態に入りやすくなり、幸福度が上がりやすいという見解もある(フローの第一人者は、ミハイ・チクセントミハイ氏)。フィゴツキー氏などの研究によると、上達するには常に自分の今のスキルレベルではぎりぎり(少なくとも独りでは)できないタスクに取り組む必要があるとされている。自分のスキルを自分のアイデンティティのよりどころにし、小さなスキルアップに幸せを見出せるようになれば、他人や社会に惑わされず充実した人生を送れる確率がぐっと高くなる。
努力に勝る才能なしという言葉があるが、努力が生まれつきの才能であると誰が決めたのだろう。努力をしても報われないことはあるが、努力の仕方にも効果的な仕方と非効率的な仕方がある。ある分野でトップの成績を収め、自分の好きなことで飯を食べている人は、もしかしたら生まれつきの身体的・頭脳的特徴より、偶然か英才教育により早めに努力の楽しみを知り、上達を続けていた人なのかもしれない。例えば、IQテストの問題点はさておき、ノーベル物理学賞の受賞者のIQも別にそこまで高くなかったりする。本人もよく言っていたが、量子電磁力学の巨人であるリチャード・ファインマンのIQは125ほどであった。一般的に知能指数が「高い」とされるのは、130からである。アインシュタインは子供の頃、通知表に「この子は決して大物にはなれないだろう」と書かれたそうだ。英語のことわざに、「小枝曲がれば大木傾く」というものがある。まだ小枝のうちに木を曲げればのちの大木も大きく曲がって育つように、早い段階で施す教育はあとになってからすることより大きな影響を及ぼす、という考え方を表すことわざだ。
一度努力が報われる体験をすると、なかなか病みつきになる。そして、努力の対象、さらには努力そのものが好きになってしまえば、もう無敵だ。何人たりともその人の充実感を損なうことはできない。努力からくる上達こそ、誰もが手にできる幸福への切符ではないだろうか。