阿久根市の戸柱公園から、光礁(ひかるぜ)が見えます。

 

で、光礁(ひかるぜ)撮影に伺いました。

バックの島は阿久根大島

 

光礁(ひかるぜ)
 光を発する岩としての言い伝えがあり、阿久根の七不思議の一つに挙げられている。
 その光は、白銀を溶かしたような色で、時間にしておよそ30分、天候に影響されることもなく光を放ったという。
 しかし、実際にその光を見た人はほとんどいないらしく、これは戸柱神社の光明であって、この光を拝むことができた人は神の御心に叶うもので、必ず幸福になると信じられていた。
 明治時代の歌人として名高い八田知紀は薩摩藩の命令により阿久根郷の名所・旧跡・神社・仏閣の調査をしてきたが、その折、幸運にもこの光礁の光を見ることができたと書き残している。
 また、この光に端を発し、この光礁付近には黄金が眠っているのではないか・・・という噂が流れ、大金を使って鉱脈を発見しようと尽力し、挙げ句の果てんには大金を無駄遣いしてしまった、というこぼれ話が残さ荒れている。

(web・hiroの部屋より抜粋)

 

 

 

 

 

 

その前に同公園内に、阿久根護国神社にお参りました。

∴戊辰の役以降、日清日露、大東亜戦の戦役に際し、国のため尊い生命を捧げられて戦死・戦病死された阿久根出身の忠霊を祀る。平成六年までの合祀戦没者一四六七柱

阿久根市誌(昭和49年刊)1023頁並び県護国神社資料によれば 当初は戌辰の役に従軍して戦没した九名の郷土出身者を祭ったので招魂社と称していたが、明治十六年(一八八三)官祭となり、同十八年三月に旧西安寺南側に建立、翌十九年三月二十六日に官祭阿久根招魂社として祭典を執行した。その後、明治二十五年六月に村費をもって町門口勝目屋敷を購入し新築移転、続いて大正七年(一九一八)には阿久根小学校の構内に移転して、その後の戦役の戦没者を合祀されてきた。昭和十四年三月の内務省令により、四月に阿久根護國神社と改称した。しかし、昭和二十年(一九四五)戦災により焼失、その後遺族会の手によって同二十七年(一九五二)講和条約発効と同時に護国神社建設委員会が発足して戸柱山に同二十九年(一九五四)現在の社と合祀者の記名塔を建立したものである。

お参りする前に、青大将にあいました。ビックリ、足元にいました。

お、おと思ったら逃げました。

蛇と神社、いい事ありそうです。

お参り後、写真を撮影しました。

 

 

 

 

光礁ご覧ください。

手前の岩はいつも海の中、出たり入ったり。

よくみれば、お釈迦様の顔が見えてます。潮の浸食で削れてできたものですが

そう見えて良かったです。

 

 

 

 

 

グレイの線まで満ちています。

今日は引き潮、知らずに撮影伺いました。そばまで行けました。

 

 

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YS