黒田如水のお墓があると聞いたので博多区の千代へ出掛けてみた。
黒田家の菩提寺である「崇福寺(そうふくじ)」である。
黒田如水は豊臣秀吉に使えた後、関ヶ原の戦いで功績を讃えられ筑前国52万石を与えられた
黒田長政の父親であり、福岡藩の祖である。
長政と共に福岡の町を育てて行った。
それまでは「博多」と呼ばれていた町を那珂川から西を武士の町「福岡」へ名前を変えたのは
黒田家の祖が備前国邑久郡福岡村の出である事に由来すると言う。
この親子が福岡の町を作り上げて行ったのだ。
偉大な親子である。
県庁・県警本部があるバス通りの1本向こう側、九大病院の左側。
通称「大学通り」を西へ進んで行くと、すぐに「崇福寺」の山門を発見!
実はこの山門は、福岡城の本丸表御門を譲り受けたものだそう。
こんな所にあったとは。
さらに、奥にある唐門は名島城の遺構。(重要文化財)
寺の一角には旭地蔵尊があり、私が訪れたこの日も「お百度参り」をする人の姿が・・・
そして一般の墓地の更に奥に黒田家の墓地がある。
普段は立ち入り禁止。
「藤水門」と書かれた門に閉ざされている為、格子の隙間から中をうかがう。
なんだか失礼にあたるようなきがしたけれど、ちょっとだけなら如水さんも許してくれるだろうか?
(こんなところに猫が・・・)
隙間から見える赤っぽい大きな墓石が如水のお墓。
この如水にまつわる話が私は好きだ。
有名な話だが、織田信長が本能寺の変で亡くなったと聞き号泣している豊臣秀吉に「ご運が巡ってまいりました、な。」
「さあ、天下をおとりくだされませ。」と言った話。渋い、渋すぎる。
更に、如水の息子である黒田長政が関ヶ原の戦いで手柄をたて、家康に手を握られてて褒められたと得意げに如水に話した時、「その手は左であったか、右であったか。」と長政に問い、「右だった。」と答えると「その時、お前の左手は何をしていたんだ。(そうすれば左手で家康を刺し殺せば戦乱の世が続き、自分にも天下取りのチャンスが巡って来るのに)」と言った・・・という話。
どちらも本当かどうかは分からない眉唾物の話だそうだが・・・。
家康に褒められて浮かれているだけの長政とは違い、もっと高みを目指す・・・
そんな姿勢の如水がやはり凄いと思う。
参考資料:「新説 戦乱の日本史 25 九州の関ヶ原」、「逆説の日本史」