Michael Alig
party monster(movie)
Greeting citizens...
We are living...in the age,
in which the pursuit of all values
other than
money, success, fame, glamor
has either been discredited or destroyed.
money, success, fame, glamor,
for we are living in the age of the thing.
money, success, fame, glamour...
NY club kids(real)
殺人罪で刑務所にいるMichael Aligに手紙を出すと、
ちゃんと返事が帰ってくるそう。
Michael は左から2番目の人
Greeting citizens...
We are living...in the age,
in which the pursuit of all values
other than
money, success, fame, glamor
has either been discredited or destroyed.
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for we are living in the age of the thing.
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NY club kids(real)
殺人罪で刑務所にいるMichael Aligに手紙を出すと、
ちゃんと返事が帰ってくるそう。
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中国女
ゴダール監督作品『中国女』1967
一年前に見た作品だがマオッマオ~というバック ソングが頭からずっと離れない。 映像フィルムと脳のパトローネが噛み合ず焦点が 定まらない。 不調和音の演奏を聴いた時 。被写界深度の非常に浅い写真を見た時 。淀んだ池の底に映る自分の姿を見た時 に感じるあの居心地の悪い気分だ。 頬に拳をあて、眉間にシワをよせながら見なけれ ば梳くい取ることのできない言葉の数々。それは 洪水の様に押し寄せ嘔吐や目眩に似た感覚だけを 残し蒸発していった。 イデオロギーやイズムといった作品の本質とは 関わりのない作品中の概念分類上の言葉は一先ず棚 上げすることにして 果たしてこの作品は映画という色眼鏡を使って表現 する理由が必要であったのだろうか? という疑問が残った。 プロパガンダとしては弱すぎるヒロイズム 、受動的な態度を決して受け入れないサディズム、 大衆芸術に於ける本来の在るべき距離感の喪失、映画を映画たらしめているであろうシークエンス の不在 。映像より会話、否ここでは会話と言うより 単位と してのパロール重視な表現体 。目的は?狙いは?ゴダールの意図するところは多分それを超えた所 ーー外部にあるのだろう。それは”問いかけ”とい う左翼学生のやりの中にも見いだす事が出来る。 問いに対する問い、広漠とした綱領の数々・・・ 特定のテリトリーに属する集団の集団的規範は ここでは毛沢東主義である訳だが、イズムを規範 とする集団の中においては批判の矛先であるイズ ムを盲目的に必要としなければならない。つまり 批判対象のを生産し続けなければ自分たちは存在出来ないという矛盾と強迫観念がつきまとい、問いかけに対し答えが用意されたその瞬間に存在価値 は消失する。イズムの価値というのは時間に属した 観念であり一時的であるが故に力強くなくてはなら ないのだ。 そんな問いに於ける問いの生産によって下部の構造 がマキシムになりコンフリクトが最大となったカオ スの縁においてそれが逆転し上部構造に顕在化した のが文化大革命、68年五月革命と言うことも出来るだろう。ゴダールは過去に『私が死んだ時、映画も死ぬ』と言ったことがあるという。この言葉を聞いた時一抹の不安と共に閃光が走りこの警句の裏には2つの主張が隠れている事に気づいた。1つは映画が潜在的に持っている映画自身気づいていない側面をゴダールは知っていたという事なのではないだろうか。つまり彼が言っているとは『私ゴダールこそ映画を作っているのだ』と。自分以外の撮る光学的投影作品は映画とは呼べない代物であり、彼の映画がそれを反面教師として教えてくれているのではないかということだ。またもう一つはヴェンヤミンからパザン、現代映画評論家まで映画史を連綿貫いてきた映像記号学による方法論の崩壊を示唆しているのではないかということ。作家性重視のロマン主義や娯楽目的のコメディー作品から資本主義によって消費されるだけに成り下がってしまった作品等々。ゴダール映画は批判性の上に立った作品でありこれにおけるコンテクストは映画の本質に関わる問いかけであり告白であるのだと。だがしかし僕の感性がそれを受け入れはしない。頭の上を様々な記号や方程式が通り過ぎていくーー。答えが見つからない・・・映画とは言語によって語り尽くされる程度のモノではないが、言語でしか映画を語る事は出来きないという事態に苛立ちをおぼえる。ラカンの言うように我々は一生現実に触れる事に対する憧れと苛立の間で揺れ動くのだろう。そもそも歴史の中で知識人達によって構成されてきた社会的概念の偏在が曇り眼鏡となり本質を見えにくくしているのも事実である。話が本題と少しずれたので軌道修正して一般的な標準な市民として中国女を評価してみよう。複雑系の度合い、重層性そして説明変数の多寡が 作品の質を表すという評価方法の議論においてゴ ダール作品(ゴダールの他作品は見ていません。ので作品の一貫性が高く評価されているという事 に乗っ取っての意見)は消失点のない無限に広が る一次関数の均質グリッド、水平に並んだ言葉の 数々ーー。ハイデガー的空間とでもいおう中で繰 り広げられる言語チェスゲームだ。そんな空間に投棄された私達は一定のルールの元に 支配され、身動き取る事を許されず奴隷と化しているのだ。 哀しいかな ここで主張したいのはこの作品を観賞して思い感 じる事は、 皆一定のルールに従って予め用意され ているとい う事だ!心の昂り、甘味な夢、勇気、 希望、感動 そして愛といった人間本来のもってい る一番純粋 な部分に触れる事の無い作品は結局、 工学の賜で しかない。 僕はそれを好まない。だがしかし工学という言葉の端的な意味ーーひな 形の再生産技術的要素を保ち得るが故に僕は何度も 見たくなるのだろう。P.S*書くスペース無くなりました↓偏った見解だと思うので意見ある方はどうぞ☆
一年前に見た作品だがマオッマオ~というバック ソングが頭からずっと離れない。 映像フィルムと脳のパトローネが噛み合ず焦点が 定まらない。 不調和音の演奏を聴いた時 。被写界深度の非常に浅い写真を見た時 。淀んだ池の底に映る自分の姿を見た時 に感じるあの居心地の悪い気分だ。 頬に拳をあて、眉間にシワをよせながら見なけれ ば梳くい取ることのできない言葉の数々。それは 洪水の様に押し寄せ嘔吐や目眩に似た感覚だけを 残し蒸発していった。 イデオロギーやイズムといった作品の本質とは 関わりのない作品中の概念分類上の言葉は一先ず棚 上げすることにして 果たしてこの作品は映画という色眼鏡を使って表現 する理由が必要であったのだろうか? という疑問が残った。 プロパガンダとしては弱すぎるヒロイズム 、受動的な態度を決して受け入れないサディズム、 大衆芸術に於ける本来の在るべき距離感の喪失、映画を映画たらしめているであろうシークエンス の不在 。映像より会話、否ここでは会話と言うより 単位と してのパロール重視な表現体 。目的は?狙いは?ゴダールの意図するところは多分それを超えた所 ーー外部にあるのだろう。それは”問いかけ”とい う左翼学生のやりの中にも見いだす事が出来る。 問いに対する問い、広漠とした綱領の数々・・・ 特定のテリトリーに属する集団の集団的規範は ここでは毛沢東主義である訳だが、イズムを規範 とする集団の中においては批判の矛先であるイズ ムを盲目的に必要としなければならない。つまり 批判対象のを生産し続けなければ自分たちは存在出来ないという矛盾と強迫観念がつきまとい、問いかけに対し答えが用意されたその瞬間に存在価値 は消失する。イズムの価値というのは時間に属した 観念であり一時的であるが故に力強くなくてはなら ないのだ。 そんな問いに於ける問いの生産によって下部の構造 がマキシムになりコンフリクトが最大となったカオ スの縁においてそれが逆転し上部構造に顕在化した のが文化大革命、68年五月革命と言うことも出来るだろう。ゴダールは過去に『私が死んだ時、映画も死ぬ』と言ったことがあるという。この言葉を聞いた時一抹の不安と共に閃光が走りこの警句の裏には2つの主張が隠れている事に気づいた。1つは映画が潜在的に持っている映画自身気づいていない側面をゴダールは知っていたという事なのではないだろうか。つまり彼が言っているとは『私ゴダールこそ映画を作っているのだ』と。自分以外の撮る光学的投影作品は映画とは呼べない代物であり、彼の映画がそれを反面教師として教えてくれているのではないかということだ。またもう一つはヴェンヤミンからパザン、現代映画評論家まで映画史を連綿貫いてきた映像記号学による方法論の崩壊を示唆しているのではないかということ。作家性重視のロマン主義や娯楽目的のコメディー作品から資本主義によって消費されるだけに成り下がってしまった作品等々。ゴダール映画は批判性の上に立った作品でありこれにおけるコンテクストは映画の本質に関わる問いかけであり告白であるのだと。だがしかし僕の感性がそれを受け入れはしない。頭の上を様々な記号や方程式が通り過ぎていくーー。答えが見つからない・・・映画とは言語によって語り尽くされる程度のモノではないが、言語でしか映画を語る事は出来きないという事態に苛立ちをおぼえる。ラカンの言うように我々は一生現実に触れる事に対する憧れと苛立の間で揺れ動くのだろう。そもそも歴史の中で知識人達によって構成されてきた社会的概念の偏在が曇り眼鏡となり本質を見えにくくしているのも事実である。話が本題と少しずれたので軌道修正して一般的な標準な市民として中国女を評価してみよう。複雑系の度合い、重層性そして説明変数の多寡が 作品の質を表すという評価方法の議論においてゴ ダール作品(ゴダールの他作品は見ていません。ので作品の一貫性が高く評価されているという事 に乗っ取っての意見)は消失点のない無限に広が る一次関数の均質グリッド、水平に並んだ言葉の 数々ーー。ハイデガー的空間とでもいおう中で繰 り広げられる言語チェスゲームだ。そんな空間に投棄された私達は一定のルールの元に 支配され、身動き取る事を許されず奴隷と化しているのだ。 哀しいかな ここで主張したいのはこの作品を観賞して思い感 じる事は、 皆一定のルールに従って予め用意され ているとい う事だ!心の昂り、甘味な夢、勇気、 希望、感動 そして愛といった人間本来のもってい る一番純粋 な部分に触れる事の無い作品は結局、 工学の賜で しかない。 僕はそれを好まない。だがしかし工学という言葉の端的な意味ーーひな 形の再生産技術的要素を保ち得るが故に僕は何度も 見たくなるのだろう。P.S*書くスペース無くなりました↓偏った見解だと思うので意見ある方はどうぞ☆
UFO
UFOとは60年代イタリアで活躍したラディカル・イタリア真っただ中
にいたエリート建築家グループ。UFOは活動は建築をイヴェントとして
捉え展覧会、建築的ゲリラ活動を通して、資本主義の中で生産行為に
留まってしまっている建築をキッチュなモチーフによって痛説に批判
したんだけどその中のリーダー的立場にいたビナッツィのHPがまだ残っています!

建築家のHPだとは到底思えないトップページ!!笑
LA RICOSTRUZIONE RADICALE DELL'UNIVERSO
と表題に書かれているのですがこれは『宇宙の急進的な再建』
という意味。う~むこの写真との相互性がわからん

これなんかピノキオの世界(たぶん。というのもピノキオの物語は聖書の
一節を書き換えたイタリアの童話)をそのまま剽窃してて、とてもキッチュ
なんだがキッチュで終わってしまっている気がしてならない・・キッチュ
というポップカルチャーの標語は批判性をその言葉の内に含むものだけれども
批判行為の中でキッチュの使用方法を間違えるとそれ自体がキッチュになってしまう。
そんな状況を的確に表現出来る言葉が日本語にはある。それは『本末転倒』という
今では資料が少ないため彼らが何を意図してこれを作ったかを知る術がないのが
非常に残念。
にいたエリート建築家グループ。UFOは活動は建築をイヴェントとして
捉え展覧会、建築的ゲリラ活動を通して、資本主義の中で生産行為に
留まってしまっている建築をキッチュなモチーフによって痛説に批判
したんだけどその中のリーダー的立場にいたビナッツィのHPがまだ残っています!

建築家のHPだとは到底思えないトップページ!!笑
LA RICOSTRUZIONE RADICALE DELL'UNIVERSO
と表題に書かれているのですがこれは『宇宙の急進的な再建』
という意味。う~むこの写真との相互性がわからん

これなんかピノキオの世界(たぶん。というのもピノキオの物語は聖書の
一節を書き換えたイタリアの童話)をそのまま剽窃してて、とてもキッチュ
なんだがキッチュで終わってしまっている気がしてならない・・キッチュ
というポップカルチャーの標語は批判性をその言葉の内に含むものだけれども
批判行為の中でキッチュの使用方法を間違えるとそれ自体がキッチュになってしまう。
そんな状況を的確に表現出来る言葉が日本語にはある。それは『本末転倒』という
今では資料が少ないため彼らが何を意図してこれを作ったかを知る術がないのが
非常に残念。









