RMTDragon Quest 10のブログ -3ページ目

RMTDragon Quest 10のブログ

ブログの説明を入力します。

【東日本大震災3年】〈福島〉原高新聞 生徒たちの今

(1/5ページ)[東日本大震災] 「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

 南相馬市の福島県立原町高校は、東京電力福島第1原発から30キロ圏内に位置する。震災直後に学校は閉鎖され、平成23年5月から生徒は2カ所の「サテライト校」に分かれた。同年10月には元の学校の校舎での授業が再開されたものの、生徒数は大幅に減った。そんな「非日常」の中にあっても新聞を発行し続ける同校の新聞部。そこから垣間見えるのは地元と学校を愛し、原発事故前と同じように普通の日常生活を送ろうとする生徒たちの姿だ。(福島支局 大渡美咲)

「笑顔と思い 世界へ発信」

 「あの原稿入れ終わった?」「キャプション(写真説明)はこれでいいかな」「先生、確認お願いします!」

 原高新聞部の部員たちが入稿日の締め切りに追われていた。見出しの題名などを考えたりする様子は、締め切り間際の新聞社と同じだ。“編集長”の顧問、萩原高明教諭(52)が指示を出しながら、慌ただしく作業が進められる。「原高新聞」は学期に1回、発行される。最新号は卒業式の3月1日に発行されたが、メーンは卒業式の記事。震災のことにはほとんど触れていない。

 萩原教諭は「忘れないでいようね、これから入学する人たちが分かるように記録を残しておこうというトーン。震災前のような当たり前の生活を取り戻していく中で、日常を伝えるようにしている」と話す。

 原高新聞部の歴史は古く、部室に置いてある縮刷版は昭和23年からある。学期に1回の「原高新聞」に加えて、体育祭の行事の結果などを載せる号外「あがぺー」、速報用の手書きの壁新聞など多彩な新聞を発行している,rmtssp

【東日本大震災3年】〈福島〉原高新聞 生徒たちの今

(2/5ページ)[東日本大震災] 「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

 現在の部員はみな震災後に入学してきた生徒だ。中心となって活動している2年生10人は当時、中学3年生。ほとんどの部員は一時、市外へ避難したが、再び地元に戻り、原町高校へ入学した。

 2年生で部長の菅野友太さん(17)は南相馬市から父親の実家のある宮城県丸森町に避難した。「やはり南相馬に戻ってきてよかった。店の営業時間などは短くて不便だと思うこともありますが、人も徐々に戻ってきていて、がれきも撤去され、完全に普通に生活しています」

避難先で発行

 原発事故後、南相馬市の大半は20キロ圏内の警戒区域と20キロから30キロ圏内の「緊急時避難準備区域」に指定された。原町高校も学校の使用はできなくなり、サテライト校として相馬市にある相馬高校に286人、福島市の福島西高校に54人が分かれた。

 震災前の23年3月1日の全校生徒数は705人だったが、現在は438人。慣れないサテライト校での学校生活は新聞どころではなかった。それでも、相馬高校に行った生徒5人が新聞作りを再開した。それまでは印刷業者に構成と印刷を頼んでいたが、部の予算もつかず、コピー機で印刷したものを切り貼りして新聞を作った。

 相馬高校で最初に発行した新聞のトップを飾ったのは「ようこそ原町高校へ」と題した記事。新任の先生の写真と紹介文などを掲載した。

 「原高生に一斉捜査~バス・サテライトについて」というテーマで生徒を対象に実施したアンケート結果も掲載。「サテライト授業中、不便なことはありますか」との問いには、「暑くて授業に集中できない」「黒板が見えない」などの回答が寄せられ、生徒たちの不便な生活がうかがえる。題字を囲む線やアンケートのグラフは手書きだった。新聞は福島西高校にも届けた。

【東日本大震災3年】〈福島〉原高新聞 生徒たちの今

(3/5ページ)[東日本大震災] 「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

 編集後記にはこうある。

 「震災の影響もありまして部員数が去年の半分に減ってしまいました。しかし例年通り無事に新聞が発行できてよかったです。大変なことが多かったですが結束力で乗り切りました。こんなに楽しい生活はありません」

日常取り戻す

 「祝 原高復活!!」

 原町高校での授業が再開された23年10月26日、こんな見出しの新聞を発行した。その中にサテライト校での生活について生徒たちにインタビューした記事がある。

 「原高に対する未練はなくなっていないが、場所は違っても頑張っている仲間を思い、私はともに進んでいこうと思う。私はずっと原高生だ」

 裏面には「原高精神此処(ここ)にあり」と大きな文字が躍っていた。

 萩原教諭は「新聞ができて配ったときは何しろうれしかったですね。戻ってきたんだなと実感しました」と振り返る。

 原町高に戻ってからは印刷もできるようになり、新しい生徒会の紹介や修学旅行の様子を取材した記事を掲載した。24年7月20日の新聞では、「原発・放射能 正解はどこに 割れる原高生の意見」として、生徒らにアンケートを取った記事も。震災後に発行した新聞は11号に達したが、意外にも震災関連の記事は多くない。

【東日本大震災3年】〈福島〉原高新聞 生徒たちの今

(4/5ページ)[東日本大震災] 「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

 2年生の部員、平田いづみさん(17)は言う。「原発の近くに住んでいるというだけで人と違うふうに見られるのはイヤだった。全国の高校生と変わらない生活を送っている」。2年生の部員、木野田真紀さん(17)は県外の人に「福島大変ですね」と言われると、いつも思う。「みんなが想像しているような大変なことはなにもないんです。将来の不安はないとは言い切れないですが、やっぱり地元は好きだし、みんな地元のためにがんばっている」

 25年12月18日号の記事はこう締めくくられている。

 「震災後、たくさんの方々の厚意に支えられてきた私たち。原高生の笑顔と思いを、社会へ世界へ発信していこう」

                   

南相馬、交通網復旧まだ

 福島県南相馬市は地震、津波、原発事故の被害に加え、事故直後は物資不足などに苦しんだ。市民のほとんどが避難したため、震災前に7万人だった市の人口は避難などで平成23年3月26日には1万人を切ったといわれる。ガソリンや食料品など物資不足で住民生活にも大きな影響が出た。桜井勝延市長が動画投稿サイト「ユーチューブ」を使って窮状を訴えた動画が世界中で話題となった。

 市内は立ち入りのできない警戒区域や避難指示に入らない区域など4つに分けられるという厳しい状況の中、復旧復興作業が進められてきた。

 24年4月16日に警戒区域が解除され、市内のほとんどの地域が立ち入れるようになったが、住民の避難生活は続いている。28年4月の避難解除を目指し、市内の除染などが行われているが、小高区の津波被害のあった沿岸部は壊れた車や家などが手つかずのままの状態だ。また、いわき市から南相馬市へ通じる国道6号は原発事故による規制で通行ができないほか、JR常磐線も首都圏や仙台までが不通のまま復旧が終わっておらず、交通網が不便なままだ。

【東日本大震災3年】〈福島〉原高新聞 生徒たちの今

(5/5ページ)[東日本大震災] 「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

「なに取材する?」。編集会議では、部員たちの間でいろいろなアイデアが飛び交い、楽しい紙面を想像して笑い声が絶えない=6日、福島県立原町高校(大渡美咲撮影)

 津波などの死亡者は636人で、避難生活に伴う震災関連死は447人(今年2月24日現在)。市内居住5万1643人に対し、市外避難者が1万4502人(同20日現在)で、震災後7203人が転出した。

                   

□福島大学うつくしまふくしま未来支援センター 開沼博さん

「復興三方よし」の状況作ろう

 福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員で、東大大学院に在籍する開沼(かいぬま)博さん(29)は、東日本大震災の前から福島を歩き、地方と中央の関係から原発を考察してきた社会学者だ。震災から3年を迎え、福島の復興と未来について聞いた。

                   

 悲観的じゃないシナリオが震災から3年で見えてきた。1、2年目は「福島のものを食べてほしい」と確信を持って言えなかったが、研究も進み、データも集まった今なら言える。

 今後、復興に関わる予算や補償は徐々に削られていく。そこで商売の言葉を引用して言うのだが、復興支援の支え手、支えられ手、世間さま皆うれしい「復興三方よし」という状況を作るのが大事だ。官や公に頼るのではなく、民や私のお金や情報が必要になってくる。非常に長いスパンになると思うが難しいことではない。いわき市の「夜明け市場」や南相馬市の「南相馬ITコンソーシアム」など震災後に始まった社会企業のようなものがスタートして成功例を示している。

 住民意向調査では、2~3割しか地元に戻らないと答えているが、店や教育機関、病院やインフラがあれば生活できる。観光や仕事で来る人がいれば、お金も落としてくれるし、道路も整備される。

 広野町がいい例だ。人口約5千のうち500人ほどしか戻って来ていないが、新しいアパートが建ち、隣のいわき市も含めてビジネスホテルはいつも満室。定住人口は減っても、廃炉作業や復旧作業のための交流人口は増えている。そうした新住民を見据えた地域作りができるはずだ。

 「福島で普通に生きていますけど」という人たちを地域作りに巻き込むこと。そういう若者や住民こそが福島を支えている。(談)