田中角栄
端的に、
この人物を評すると、国民に夢や希望を持たせてくれた政治家!
政治家としての使命を国民に分かりやすく説明し、次々と国民に希望を持たせる政策を実行し、衆議院議員として、100本を越える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に大きな影響を与えた。
学歴は、昭和8年、二田高等小学校卒
いわゆる高等小学校卒である。
しかしながら、
小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長を続け、高等小学校卒業の際に総代として挨拶をしている。
卒業後の田中は、土木工事の現場で働くが、一ヶ月で辞め、昭和9年、理化学研究所の大河内正敏が書生を採用するという話を聞き、上京する。
しかし、その話は通っていなく、
やむなく、仮宿としていた井上工業に住み込みで働きながら神田の中央工学校土木科夜間部に通う。
昭和11年に中央工学校を卒業し、建築事務所に勤め、昭和12年に独立して、共栄建築事務所を設立。
設立の前後、日比谷のビルで大河内正敏と偶然にエレベーターに乗り合わせたことから知遇を得、理研コンツェルンから仕事を数多く引き受けることになった。
人の縁とは不思議なものだ。
昭和13年に徴兵検査で甲種合格になり、陸軍の騎兵第24連隊への入営を通知され、昭和14年に満州国富錦で兵役に就く。
入営後、一年で陸軍騎兵上等兵になるが、昭和15年に肺炎になり、内地へ送還される。
治癒後の昭和16年に除隊となり、東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、翌年に家主の娘、坂本はなと結婚。
家主は土木建築業者で結婚と同時にその事業を受け継いだ。
同年、長男 正法が誕生、後に4歳で死亡。
昭和19年に長女 眞紀子が誕生。
昭和18年に事務所を改組して田中土建工業を設立し、理研コンツェルンとの関係が復活。
理化学興業などから仕事を請け負い、田中土建工業は、年間施工実績で全国で50位以内に入る。
昭和20年2月に理化学興業の工場を中国の大田に移設する工事のため、朝鮮半島に渡るが、
8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったことを瞬時に察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮半島の全資産を新朝鮮政府に寄付した。
その後、
昭和21年の衆議院選挙に立候補するも誤算から落選。
昭和22年の総選挙で、新潟3区から立候補し当選!
昭和23年に吉田茂を党首とする民主自由党に入党し、吉田茂の知遇を得る。
その後は、
目覚ましい立身出世ぶりで、
昭和47年7月5日、自由民主党総裁に当選
翌、7月6日、第一次内閣成立。
この時の内閣支持率は70%という驚異的な支持率だった。
今太閤と呼ばれ、庶民宰相として国民の圧倒的な支持を受ける。
内閣総理大臣になった2ヶ月後、電撃的に中国を訪問し、毛沢東国家主席、周恩来首相と会談し、日中国交正常化をやってのけた!
昭和51年にロッキード事件で内閣総理大臣経験者として逮捕されるが、、
田中派は、
勢力を拡大し、総理大臣を選ぶ政界のドンとして君臨する。
彼の功罪は、
賛否両論に分かれるが、
あれほど国民や人を魅了し、分かりやすい政治を行い、日本を豊かにした政治家は他に類を見ない。
彼の発する言葉そのものが珠玉の名言だ。
現代にも、今後に於いても、
あんなにスケールの大きい、温かい、国民に夢や希望を与える不世出な政治家は二度と現れないだろう....
田中角栄に比べれば、
今の政治家は幼稚で器が小さすぎる。
現在の日本の政界に、田中角栄のような不世出の天才政治家が不在であることが、日本の不幸だと思う。