西田俊哉のベトナム・フォー・パラダイス

西田俊哉のベトナム・フォー・パラダイス

ベトナム在住10年 アイクラフトJPNベトナム株式会社 代表取締役 西田俊哉がベトナム進出を検討している日本企業の方にベトナム情報を発信しています。

 

1,琉球王国がなぜ日本に編入されたのか?

 1972年5月15日、沖縄の施政権(立法、行政、司法の権限)は米国から日本に返還されたことは知っている人が多いと思いますが、琉球王国が日本に編入された経緯については、日本人でも知っている人は少数でしょう。先月お越しになった大西雄三氏から面白いのでぜひ読んでみてほしいとお借りしたのが、「小説 琉球処分」(著者 大城立裕)でした。

 

 大久保利通などを中心とした明治政府の官僚たちが琉球王国を日本に編入しようと画策した過程を「琉球処分」という言葉で著しています。琉球王国は従来から薩摩藩が宗主国の関係を結んでいながらも、中国(当時は清国)でも朝貢関係を続け、二重の支配関係にありました。その二重の支配体制を「日支両属」と言われます。小説では島津藩の税徴収に琉球の人々が苦労していたことが書かれています。また、清国に対しては琉球の人々が気を遣いながら接していた様子が伝わってきます。明治維新後、明治政府は廃藩置県を行いましたが、国境の確定をする必要があったことから琉球の併合を画策しました。

 

 その際に1871年に宮古島島民の台湾遭難事件が利用されました。台湾で数十人が虐殺されたとして、日本国民に対する虐殺として清国に賠償を求める交渉をしました。この交渉を進めるにあたり、琉球を日本に併合する提案を進めました。1874年日本は台湾へ懲罰的遠征をし、和平協定により清国は賠償金を支払い、琉球人を「日本国属民」と表現させることにも成功しました。

 

 1875年日本政府は琉球の処分を決定しました。内務省の松田道之が処分官に任命され、首里城内で9つの要求を提示しました。要求を受けたのは病気の琉球国王尚泰に代わった今帰仁(なきじん)王子でした。琉球王朝に伝えた要求は以下の通りです。

 

 中国への朝貢・祝賀施設の派遣中止、中国からの使節の接待中止、日本の元号採用、新刑法施行のため東京へ三役の派遣、藩政改革・階層改革、留学生の東京派遣、福建省の琉球館廃止、国王の東京訪問、日本軍の駐屯地設置の9項目です。一部の処分には反対があり、しばらくは不穏な空気に支配されました。その後琉球藩が廃止されて、沖縄県になったことが日本政府から発表されました。琉球王国の人たちにも日本政府に反発もありました。清もこの併合には反発をし、日清戦争を引き起こす重要な要因にもなりました。アメリカ政府が仲介し、一時は奄美大島など一部を日本の領土にし、八重山諸島と宮古島などを清国の領土、沖縄本島を琉球王国にする案まで出たことがありました。この問題は、日清戦争を引き起こす重要な要因にもなりましたが、日本が日清戦争に勝利することで、長引く不満などは解消されるに至りました。

 

2,国境は固定したものではなく激しい変動の歴史

 第一次世界大戦前のヨーロッパは、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国などの帝国が君臨していた時代があります。また、第二次大戦後ドイツとポーランドの国境は改めて線引きが行われました。20世紀終盤まで存続していましたが、解体された大国もあります。それはソビエト連邦やユーゴスラビアのような国です。1989年ベルリンの壁崩壊もありましたが、ソビエト連邦は1988年から始まったバルト三国の独立以降、1991年ソ連崩壊により15の国に分かれました。ソ連崩壊の衝撃はその当時大きなニュースでした。

 

 ユーゴスラビアは、1988年ユーゴスラビアのサラエボで冬季オリンピックが開催されましたが、1991年から民族対立の内戦が発生し、現在はボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアの5か国に分かれました。内戦にはなっていませんが、チェコ・スロバキアもチェコとスロバキアに分かれました。

 

 西ヨーロッパは比較的国境の変更がありませんが、それでもドーデの小説「最後の授業」ではフランス領のアルザス地方の学校での話が展開されています。遅刻して学校に入った少年が先生に叱られるかと思いましたが、静かな口調で席に着くよう促されました。先生は、「アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけなくなりました。これが私のフランス語の最後の授業です。」というように国境が変ることで使うことができる言語も変ってしまうのです。

 

 しかし東ヨーロッパになると状況が違ってきます。東ヨーロッパは東西冷戦の影響でソ連を中心とした東側諸国として分断されてきました。また、戦争によって列強の支配のせいで国境線も変えられてきました。東欧諸国は19世紀半ばにひかれた歴史の新しい国境が多くあります。ポーランドなどは国名が消えていた時期があります。第一次世界大戦前まではドイツとロシアに分割支配されており、ドイツが敗戦したことで復活しました。結局は今の国境はドイツが第二次大戦に敗れたことで、ポーランドやソ連にも伸びていた領土が分割され、大部分はポーランドに譲渡され、一部は現在のロシアの飛び地に分割されてもいます。

 

 国際情勢は絶えず不安定さを生み出しています。ヨーロッパを例に見てきましたが、国境は昔から固定されたものではなく、歴史の激しい変動の結果として揺れ動いてきました。今現在もウクライナとロシアの戦争が続いていますが、東欧は領土が固定された歴史が浅く、このような領土の分割は絶えず起こり得る状況にあると考えられそうです。

 

3,ソ連崩壊とは何だったのか?

 ソビエト連邦が崩壊したのが1991年でしたが、ソ連崩壊とは何だったのかを松本深志高校の後輩でもある北野幸伯(きたのよしのり)氏のコラムを参考にお伝えします。彼は高校卒業後、1990年にモスクワ国際関係大学に留学し、ソ連崩壊当時の状況を体感している人物です。ソ連とは何だったのかは、まず1917年のロシア革命から説明する必要があります。

 

 マルクス主義をベースとする世界初の社会主義政権を作るきっかけとなったのがこの革命です。1922年にはレーニンを中心にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)は成立しました。この思想は人類の歴史を階級闘争の歴史と捉え、労働者階級が資本家階級を打倒することで、新たな発展段階の社会主義の時代になると考えられました。

 

 ソ連は米国や日本のような資本主義国とは真逆のシステムで動いていました。共産党の一党独裁体制と社会主義計画経済の体制です。共産主義とは私有財産を否定する社会で、民間企業も存在しませんでした。石油会社のような大企業も町の小さな食料品店も国営で、社会人はすべてが公務員という体制です。共産主義の社会体制とはこのように現在の資本主義国から見るとかなり変わった体制でした。

 

 その体制の功罪はともかくとして、アフガニスタン戦争の戦費増大、米国との軍拡競争、80年代の原油価格の低迷などが重なり、経済状態が極度に悪化したことが最大の要因です。1990年北野氏が留学した当時は、車の数は圧倒的に少なく時代遅れのソ連国産車ばかりだったと言います。テレビも白黒で、モスクワの家庭には洗濯機がないところも多かったようです。生活で最も厄介だったのは、食料品店前の長い行列で1~2時間ほど並ばないと中には入れず、入った時には棚はガラガラだったと言います。そのようにソ連の経済状況は悪化していました。

 

 1989年ベルリンの壁の崩壊がたときには東欧の民主化革命が起こると、当時の大統領ゴルバチョフは黙認したようです。第二次世界大戦後ソ連に併合されていたバルト三国なども独立のチャンスととらえて独立を宣言、1991年ソ連構成員のロシア、ウクライナ、ベラルーシが、「ソ連消滅と独立国家共同体設立」を宣言して、ソ連は崩壊しました。崩壊後のロシアには市場が開放されて、外国から様々な製品が流れ込んできたことでモノ不足は解消されましたが、ひどいインフレに見舞われ、ほとんどのロシア人が一文無し同然になったとのことです。

 

 そのこともきっかけに、ロシア国民の中には強いロシアを復活させてくれる指導者を求めるようになり、2000年にはKGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチンが大統領になりました。ロシア国民は民主主義を強く望むようにはなっていませんでした。プーチンがラッキーだったのは、その当時主要輸出品の原油価格が上がり始めていたことです。大不況を経験したロシア国民は、プーチンの政治を認めたのです。

 

4,ホモ・サピエンスが絶滅しなかった理由は「認知革命」

 以前、読んだ本に「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)がありますが、傍流の人類が誕生した中で、ホモ・サピエンス(人類)だけが生き残った理由として、「認知革命」を最も大事な要素として挙げています。それはホモ・サピエンスの頭が良かったからでもなく、道具を使えるようになったからでもなく、二足歩行ができるようになったからでもなく、「認知革命」が人々をまとめることに貢献したとしています。

 

 その後の「農業革命」と「科学革命」も必要な要因として扱っていますが、最重要な要因として「認知革命」とはいったい何なのでしょうか?通常人間は150人程度も交流するのが限界だと言います。それ以上の人とは関係を作ることができませんが、フィクションを信じることができれば、多くの人と協力できるようになると言います。虚構を作り、それを語ることで、神話を作り、会ったことがない人でも協力できるようになるとしています。この協力できるようになる虚構を作る力を「認知革命」と言っています。

 

 特に重要な虚構は国家、宗教、お金と言われています。お金に関しては貝や革、塩、穀物などが利用されていましたが、現在では国家が発行する紙幣になりました。最近ではデータ化されて電子マネーも利用されるようになりましたが、信用できるかどうかの情報をデータ化したものが電子マネーです。

 

 一方国家の基礎を作るためには、みんなが信じられる権力・権威が必要になります。日本でも天皇家創成の物語は、「古事記」「日本書紀」などで作られてきました。特に古事記は. 天武天皇の命令のもとで、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記し語った神話や伝承などを、太安万侶(おおのやすまろ)が記録し古事記をして編集されました。各国の歴史もこのような神話が根付いています。ベトナムでの最初の国家バンラン国が紀元前2879年に建国されたという伝説があります。その当時の国王の「フン・ブン王の命日」というベトナムの祝日もあります。

 

 サピエンス全史の話に戻りますが、その後の農業革命は小麦や稲、ブタや馬などの家畜を囲うことで安定した暮らしができるようになりましたが、労働時間は長くなり、貧富の差を生みお金を持った人が権力を持つようになったといい、お金を持つために戦争も発生するようになったと言います。

 

 「科学革命」前は、宗教に生きるための答えがあると信じられていました。その後、科学的知識を得て投資をすることで、さらに利益を上がられることが分かってから近代化が進みました。それが資本主義と帝国主義に進むことになりました。

 

 ハラリはサピエンスによる地球の支配で、私たちが誇れるものはほとんど生み出していないと断言します。環境を支配して、食物の生産量を増やし、都市を築き、帝国を作り、広大なネットワークを作りましたが、個々のサピエンスの幸福は増進せず、それ以外の動物たちにとっては甚大な災禍を招いた、と結論付けています。

 

5, 国家とは何なのか

 国家についてマックス・ウェーバーの有名な定義があります。「国家とは正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である」(「職業としての政治」岩波文庫より)。ここで言われる暴力が悪なのかどうかは別問題として扱いますが、国家が維持されるためには、税(あるいは年貢)の徴収、国家の維持を危うくする国内の取り締まる警察、あるいは国外からの侵略や侵入の取り締まる軍隊、また、凶悪犯罪の死刑制度など、社会秩序を守る体制などを暴力装置としてとらえているようです。ウェーバーはこれらの暴力装置がないと国家は維持できないとも言っています。

 

 暴力は悪と規定するのではなく、国家を維持するためには暴力を抑制する、あるいは治安を維持する暴力装置を持っていることが国家の本質であることを述べています。しかしながら、圧政の危険を防ぐためには民主主義的に統治された暴力装置でなければならないとしています。一方でロックの「社会契約論」では、治安の維持よりも、個人の権利の保障の方に国家の本質的な役割を主張している考え方もあります。

 

 第一章でご紹介した「琉球処分」を読み終えた後、そのような国家論に触れて考え

る機会を得ました。その当時の政治情勢が背景にありますが、欧米諸国がアジアを植民地化するために、着々と準備を進めていました時代背景がありました。清国はアヘン戦争でイギリスに苦しめられていました。今は中国に返還されている香港は、このアヘン戦争でイギリスに99年間租借されたのです。

 

 そのような中で明治政府は。清国と日本の二重支配にあった琉球を日本の領土とするためにとった政策が「琉球処分」でした。清国はイギリス以外からも植民地化を狙われていました。そのような事情で国が、弱体化し始めていたのも事実です。「琉球処分」の後、日本は清国と戦争をすることになりました。1894年から1895年にわたる日清戦争です。

 

 そのきっかけは、その当時の朝鮮半島は清国が宗主国として強い影響力を持っていました。しかし、朝鮮政府(李氏朝鮮)の専制的な支配や重税に苦しむ朝鮮民衆が、宗教結社の東学党の指導の下で蜂起しました。朝鮮政府(李氏朝鮮)はそれを鎮めることができず、清国に軍隊の派遣を求めました。そこに日本が清国に対応して朝鮮に軍隊を送ったことから、「日清戦争」が始まりました。朝鮮でのきっかけが主な理由に挙げられますが、その戦争のきっかけには、「琉球処分」に関する清国の反発も背景にあったようです。

 

 清国は清仏戦争でフランスにも敗北して、ベトナムがフランスの植民地にもなりました。清国の敗北で弱体化する中で、下関条約が結ばれ、台湾の日本領土化と遼東半島の割譲を受けることになりました。大国に成長する日本を警戒する欧米列強、特にロシア、フランス、ドイツが干渉し、日本が獲得した遼東半島は還付することになりましたが、それを「三国干渉」と言います。清国を日本から助けたことにより、清国は三国にさらに支配されるようになりました。その経緯からその後発生する日露戦争にもつながることになります。日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約で朝鮮に対する優越権を認められて、1910年韓国も併合することになりました。

 

 日清戦争のきっかけなどを見てきましたが、領土の問題は国家が暴力装置をいかに持っているかという視点は、結果的には大事な要素だったのかもしれません。私も戦後の日本しか知りませんので、領土獲得のための戦争の歴史についてほとんど無知でしたが、小説「琉球処分」読んだことが刺激となり、その辺まで調べてみることが楽しみになりました。時代の状況にはより同様には考えることはできませんが、国とは国境とは何かを考えさせられたのが、小説「琉球処分」でした。

 

以上

1,インフレの要因を考える

 デフレ経済だった日本の物価の上昇が始まったのは、コロナ禍の2021年後半くらいからだったように思います。要因は国際的な原材料の価格の上昇や物流システムの混乱、コロナ禍の人手不足なども要因で世界の国々で物価の上昇傾向が鮮明になりました。世界中で物価高になっている要因は供給の不足です。その要因はあちこちで起こっている戦争や紛争の影響もありますが、2021年頃から始まっていることを考えると別の要因が考えられます。その当時の出来事は、「コロナ禍」ですので、それが影響していると言えます。その当時は生活様式の変容、特に在宅勤務の定着などにより、エッセンシャルワーカーという言葉で言われていた在宅勤務できない分野の人材が不足しました。在宅勤務ができないのは、農林水産業、製造業、物流、医療や小売りなどの事業者です。それらの人材不足も相まって、物価が上がるようになっていきました。その後、世界各地で起こっている戦争や紛争も影響を与えています。日本ではそれに加えて急激な円安による輸入コストの上昇が物価高の要因に加えられます。

 

 ところでインフレには二つのタイプのインフレがあります。コストプッシュインフレとデマンドプルインフレです。コストプッシュインフレは、コストが上がるから物価が上がるということで、今の日本がまさにその状態です。デマンドプルインフレとは、人々の購入意欲が旺盛なために価格が上がることです。日本の高度成長期の物価上昇はこれが要因です。給料が上がり消費意欲が拡大した高度成長期は、日本の経済的な地位を上げることになり、世界第二位の経済大国にもなりました。今では中国に抜かれ、ドイツにも抜かれ、そのうちにインドにも抜かれそうな状況です。今回のインフレは需要が拡大することに因るインフレではなく、輸入価格や人件費が上がることによるインフレであり、経済成長に繋がるインフレではありません。

 

 日本では1980年代後半から1990年初頭にかけて発生した資産バブルの崩壊や金融システムの不安定化などを要因にデフレ経済に陥っていました。賃金も上がらないので物価を下げないと物が買えないので、企業はコスト削減を進めることに集中しました。下請け企業は大手企業からコスト削減を要請され、人材も非正規労働者に切り替えるなど、物価も賃金も上がらないデフレ経済に突入してしまいました。ようやくここにきてデフレ経済からの脱却ができそうですが、物価の上昇が激しいので、人々の生活は引き続き厳しいことでしょう。逆に物価上昇が厳しい現在より、デフレの方が良かったと思う人もいることでしょう。

 

2,物価上昇はいつまで続く?

 一昨年から賃金上昇の傾向が表れています。一昨年の春闘では賃金上昇率は平均2.2%、昨年が3.6%とのことです。そのような流れが定着し、今年の春闘の集中回答日では、組合の要求に対してほとんどの企業で満額の回答を出したこと、組合の要求よりも増額の回答をした企業もあったことが報道されていました。このように賃上げの方向性が継続されるようになっています。

 

 大企業を中心に人材を確保するためには賃上げをせざるを得ないのです。優秀な人材を雇って働き続けてもらうためには、積極的に賃金を上げる必要があるという考え方に変わってきています。中小企業も経営が大変な中で賃上げしないと人材が確保できないので、賃上げの動きが広がってきているようです。

 

 そうはいっても経営環境が厳しいのが中小企業です。特に地方の中小企業の人手不足は深刻と言えるでしょう。人手不足を解消するため外国人の技能実習生に頼っていますが、それも制度改正され、転職が認められる方向で調整が進んでいます。地方の企業を守っていけるかは、地方にも人が住み続けられる環境を維持することです。日本の国土の保全にとっても重要な課題と言えます。

 

 このような動きを見ていると、この物価高がいつまで続くかを考えると、半永久的に長期間にわたり続くのではないかというのが私の率直な感想です。半永久的という意味は過激な経済変化に直面するまでは続くという意味です。過激な経済変化とは、激しいリセッション(景気後退)の意味を含んでいます。高齢社会の日本では今後も労働力不足が継続します。30年以上日本では抑えられていた賃金の上昇が始まりました。物価が上がるから賃金も上げることは、人手不足に苦しむ企業にとっては、避けることができない対策です。賃上げしなければ人材は去り、廃業せざるを得なくなります。

 

 それに合わせて、円安傾向は150円前後に定着しています。世界ではインフレ傾向が鮮明なため、インフレ退治のための利上げをしていますが、日本では金融緩和をやめる気配はありません。金利を上げることは金融引き締めにつながりますが、経済の減速を不安視してその政策が取れません。金融緩和していることにより、余った資金の行き先が不動産投資などに向かって不動産価格の上昇も続いています。そのことを加味しても、物価の上昇はしばらく続き、価格が下がることはないだろうと思えます。

 

3,「日本製鉄の転生」を読んで

 労働組合の要求を上回って増額回答をした企業があったことをお伝えしましたが、その企業の一つが日本製鉄です。2012年に新日本製鉄と住友金属工業が合併して、新日鉄住金という名前でしたが、2019年から日本製鉄に社名を変更していました。現在、「日本製鉄の転生」(上阪 欣史 著)という書籍が人気があり、販売部数も伸びているようです。

 

 一時期低迷していた日本製鉄が目覚ましい復活を果たしていることを著したのが、「日本製鉄の転生」です。一時期新日鉄住金は危機に瀕していました。決死の覚悟で5つの高炉を削減し、32のラインを休止させて出血を止めました。そのあとで打ち出したのは高級鋼板の値上げ交渉です。名古屋製鉄所で大手自動車メーカー宛に納品していた鋼板が高い技術で製造されていましたが、納入先からの価格交渉に屈して、ほとんど利益が出ない状況でした。意を決して値上げに応じてくれなければ納入できないとの強気の交渉の結果、価格の引き上げに成功しました。安くしなければ買ってもらえないから、品質を上げて高く買ってもらうことに転換したのです。売り手と買い手の立場を逆転させました。

 

 それ以降は海外のM&Aに心がけています。インドで過去最大のM&Aを成功させるなど、コスト削減した部分で余剰になった資金を使い積極的に打って出る取り組みもしています。2023年からは米国の大手鉄鋼メーカーのUSスチール買収にも着手しています。トランプ前大統領も反対し、バイデン大統領も慎重な姿勢を崩してない中で、日本製鉄は強気を崩していません。日本製鉄の株主たちもこの提案を承認したと伝えられています。このように日本製鉄に大きな変化をもたらしたのが、2019年に社長に就任した橋本英二氏だったと言います。主力の国内製鉄事業が赤字の落ち込み、回復が見通せない中で変革を進めたのが橋本氏でした。企業を変革に導く強いリーダーシップは、企業でも国でも必要なことでしょう。

 

 デフレの日本社会において、とにかく価格を下げなければ市場から相手にされなくなる恐怖から、賃金の削減、コストの削減に終始してきた日本企業です。それに反して、無駄なコストは徹底的に削減するが、技術力に優位性があるものについては、強気に価格のアップを勝ち取る積極果敢な行動に代わっています。それで得た利益は、グローバル市場に積極的に攻勢をかけたことも円安下の企業経営に資するものがあります。日本を代表する日本製鉄ですが、改革によって再生したのです。日本は長らく金融緩和の緊張感の足りない経済政策の中で、企業も生活者もデフレの安心感の中で安住していました。一般的な世界経済の趨勢とは異なる動きを続けてきてしまったのです。その点でいえば、日本製鉄のような変革をしようとする企業が増えてくることが、日本にとって今後求められることでしょう。

 

4,日本は「英国病」に陥ったのか?(大西雄三氏のお話を聞いて)

 先日の4月12日元大手学習塾経営会社ワオ・コーポレーションで長年にわたり常務、専務、副社長を歴任された大西雄三氏とお話をする機会がありました。そこでお聞きした内容はとても興味深いものでした。大西氏の了解をいただいたので簡単にお伝えします。

 

 大西氏は1973年に2か月の短期留学、1975年~1976年の約2年の長期留学をしていました。その留学先はイギリスです。その当時「ニクソンショック」と言われましたが、為替が変動相場制になり、1973年にはオイルショックを受けて、大西氏が留学していた1975年から1976年にかけてイギリスの事情について次のように語っています。

 

 「1ポンドが700円台から400円台までに下落していました。当時日本では変動相場になってはいたのですが、為替についての関心や個人が為替を取引する人はおらず、一部のビジネスの世界の人たちだけの関心事でした。ところがまず4か月ほど語学学校に行って驚いたのですが、ヨーロッパの国々から来た学生たちは、為替の話を毎日しており、最低限以外は強い通貨でお金を持っておき、ポンドには両替しませんでした。特にスイスフラン、ドイツマルクでお金を所有していました。当時日本円は強くなり始めていましたので、円をぎりぎりまで、ポンドに変えてはいけないとよく言われました。これがイギリスにおけるカルチャーショックの始まりです。多分現在の日本でも外国人の間で、為替問題は議論になり、現在はFXなどでヘッジができますので、日本円を所有している外国人は手を打っていることでしょう。」

 

 大西氏が現在の日本が当時のイギリスに似ていると思うところを挙げています。

(1)衰退に向かっているのに、危機感が薄い。大ショックが起きないとわからないのでしょう。

(2)インフラが老朽化している。

(3)公的分野に金がかかりすぎている。(国の稼ぎの割に支出が多い)

  (4) 老人が多く、ペットを大事にしている。

(5)国民が過去の栄光を忘れられない。自分の国はまだ新興国には負けていない。

 

 大西氏は続けて次のように当時のイギリスの状況を述べています。「当時優秀なイギリス人はイギリスを見限り,英語で仕事ができるアメリカ、カナダ、オーストラリアをはじめ英語圏にどんどん移住しはじめていました。逆にインドをはじめアジアやアフリカなどのイギリス連邦から豊富な安い労働力はどんどん入ってきて、人口の流動化が始まっていました。」

 

 その当時のイギリスが陥っていた状況を「英国病」という表現を使いますが、

1960年から70年代にかけて経済成長が長期的に停滞していた状況を示す表現です。イギリスは産業革命の成功を受け、世界の工場と言われ繁栄し、世界各地に植民地を持ち、大英帝国として覇権国の地位を築いていました。ところが1960年以降、フランス、西ドイツ、日本に抜かれて70年代も低迷が続きました。世界では第二次大戦後経済の好況が続いていましたが、イギリスは例外的に停滞していました。

 

 その原因としては諸説あるようですが、主要な要因に上げられるのは、固定的な階級社会、教育の保守性、施設の老朽化などがあげられていますが、経済学者の森嶋通夫氏の著作「イギリスと日本」(1977年岩波新書)などによると、労働党と保守党の二大政党の政権交代のたびに経済政策の基本政策が定まらないことが主要な原因として挙げられています。時代に適合した経済政策が行われなかったのです。教育についても、手作りや個人としての確立を重視するイギリスの教育より、日本の教育が大量生産を目的とするその当時の工業化に適していたと指摘しています。逆に日本の教育の在り方は、大量生産の時代から変化する中で、時代に合わなくなっていると思われます。

 

 その後、英国病の克服を至上命題に上げて80年代に首相になったサッチャーは、その原因を労働党政権やその後の保守党政権も引き継いでいたケインズの提唱した完全雇用を目指すための「大きな政府」による政策が無駄をもたらしていると考えました。そこで「大きな政府」から「小さな政府」の政策に転換しました。それは社会福祉などの出費を削減し、企業活動を規制せず、雇用の自由化などを推進する新自由主義と言われる政策への転換でした。

 

 日本の場合でも、イギリスより15年程度遅れて新自由主義的政策が行われるようになりました。代表的なのが小泉政権ですが、郵政民営化などの政策を強いリーダーシップで実現しました。安倍、福田、麻生と自民党政権が続きましたが、選挙の結果政権交代となり、民主党政権になりました。鳩山、菅、野田政権が続きましたが、再度政権交代があり、安倍長期政権が続きました。その政権交代の様子や行った政策などから見るとイギリスのその当時の英国病の理由と日本の理由は異なるように思いますが、金融緩和(アベノミクス)を長期に続けたことで、結果的に企業活動は助けられました。しかしその結果、ゾンビ企業を温存し、時代に合った産業への改革ができなかったとみることもできるのではと思います。

 

5,超円安の恐ろしい現実予想

 しかし、大西氏が英国病について語っていた言葉の中で、最も驚いたのは通貨(英ポンド)の価値の変化についての言及です。通貨下落についてネット検索した数値が以下の数値です。

 

 19世紀に基軸通貨だった英国ポンドですが、1992年のポンド危機を経て通貨の価値を大きく下げた歴史があるようです。1971年3月、「1ポンド=864円」だったのが、2011年12月には「1ポンド=119円」と7分の1まで下落したとされています。最近でもトルコ・リラやアルゼンチン・ペソの下落が報じられていますが、次のような下落が記録されています。

 

〇 トルコ・リラの急激な価格変動

1ドル=5.88リラ(2020年1月10日)→1ドル=28.67リラ(2023年11月15日)

〇 アルゼンチン・ぺソの急激な価格変動

1ドル=58.52ペソ(2020年1月10日→1ドル=350.06ペソ(2023年11月15日)

 

 日本も2年前の2022年3月中旬では、1ドル=115年程度でしたが、4月後半には1ドル=131円になり、その後円の価値がどんどん落ちており、最近では1990年以降34年ぶりの円安水準と言われるまで円の価値が落ちています。日本円だけで生活していると円安とはどのようなことであるかは実感できないでしょう。日本に外国人観光客が急激に増えていることなどは、円安に直結した現象です。また、輸入価格が上がったことから物価が上がり続けるのも円安が招いた現象です。

 

 今まで日本のエッシェンシャルワークを支えていた外国人技能実習生が日本から離れること、日本行を選択しなくなることが起こるでしょう。円を自国通貨に換えたときに以前より大幅に目減りするからです。円を海外通貨に換えないといけない場合、大幅に価値は下がりますので、日本人の海外旅行は減るでしょう。また、日本円の金融商品よりも外国の金融資産を持つことを選択する人も増えるでしょう。多くの人が円を売って外貨に換える選択したら、キャピタルフライトが起きて、更なる急激な円安を招くことにもなります。ベトナムに住んでいる日本人の中でも給与の基礎金額を日本円で計算されて現地通貨で受取る人は大幅な減少に苦しんでいる人もいます。また、日本からのオフショア開発をしているIT企業では、円建ての契約をしていることから、海外通貨に換えて従業員の給与で支払うとき大幅な減少に困っています。

 

 一方で海外に拠点を持っている企業は円安による利益を享受できます。例えば海外でビジネスをしている大手商社、海外で製造拠点を持ち輸出している事業者は大幅な利益を得て、日本の親会社に還元することができます。外貨を円に換えると以前に比べて利益が出ますが、その逆は損失が多くなります。円安日本では、海外で稼ぐ仕組みがないと利益を上げられなくなっているのです。

 

最近よく言われるのは海外でアルバイトをし、就職をする若者が増えていることです。海外の給与水準が高く、外貨で給与を受け取ってから日本円に換金すると、以前に比べてもかなり増えることになります。ベトナムでは2015年に外国人が不動産(コンドミニアムなど)を購入できるようになりましたが、円高の時に購入して、賃貸し家賃収入を得ている人は、現地の非居住者口座で預かっている現金を日本円に換えたときに、以前より多くの日本円に交換できます。そのように円高の時に外貨建の資産を持っていた人にとっては、今の円安はプラスになります。

 

 通貨安に陥った通貨をその国以外で使うと損することになります。ところで通貨安が止まらない国になると、もっと恐ろしい現象が襲ってきます。これを通貨危機というのですが、どのようなことが起こる可能性があるか見ていきましょう。

・急激なインフレに見舞われる。

・政治が不安定になり、政権交代がしばしば起こる。

・国内企業が外国企業に買収され、既存の海外資本企業が相次いで撤退する。

・不動産などの国内資産が外国資本に買われる。

・政府機関のコストカットが要求され、行政サービスの質量が低下する。

・国内の優秀な人材が流出し、海外からの出稼ぎ労働者も減少する。

 

 日本がトルコやアルゼンチンのような財政が厳しい国と同等の通貨安に陥る確率は低いものと思いますが、食糧やエネルギーを海外に依存してことから考えると、円安による食糧不足、原油価格の高騰を引き金に一層のインフレの進行、投資家が円を売って外貨に交換するリスクを考えるとあり得ないとは言えません。早めに円安から脱却できればいいのですが、まだその道筋が見えていません。

 

以上

 

 

1,日本人アスリートの海外進出

 この原稿を書き始めたころ、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍した大谷翔平選手が結婚したことを発表し、マスコミでは大きな話題になっていました。世界で活躍するアスリートには日本全体が大きな関心を持っています。大谷翔平選手のみならず、近年のスポーツ界では海外に進出するアスリートが増えています。野球では大谷選手以外にも日本プロ野球の代表的な選手が次々と移籍しています。野球よりも輪をかけてたくさんの選手が海外に渡っているのはサッカーです。サッカーの市場は全世界に拡がっており、市場規模も大きいので、日本人プロサッカー選手は50人以上が海外に渡っているものと思います。日本代表に選ばれる選手の大部分も海外に渡った選手だからです。

 

 野球とサッカーでは、拡がっている地域が違います。サッカーはほぼ全世界に拡がっていると言えるでしょうが、野球はアメリカ大陸、東アジア、オーストラリア、ヨーロッパの一部に限定されており、グローバルな市場性はサッカーの方が圧倒的でしょう。サッカーが全世界に拡がったのは、ボール一つあればみんなでプレーできたからかもしれません。野球は一人一人の道具がいるため、貧しい子供たちは参加することができなかったことも理由の一つかもしれません。

 

 ところでアスリートたちが海外を目指すようになった理由を考えてみたいと思います。グローバル化の影響もあって、実力のあるアスリートは強豪のひしめく世界で自分の力を試してみようとしていることは間違いない事実でしょう。自分の価値をもっと上げるために海外に移籍していることは最も大きな理由でしょう。

 

 ただ、私には時代の変化や市場性の変化が、アスリートの移籍に影響を与えているとも考えています。それを考えるヒントが韓国のエンターテインメント(Kポップ)の海外進出が参考になります。アメリカでも、この東南アジアでもKポップの人気は絶大です。なぜそのような地位を築けたかというと、韓国の市場規模が小さく外に出ていくしかなかったことです。初めから海外に輸出することを前提に準備されたKポップは海外市場で売れることを強く意識されていました。

 

 日本のアスリートが海外に出るようになったのも、例えばプロ野球の地上波放送が少なくなったりする中で、市場が縮小していることが理由に挙げられるかもしれません。このように市場が縮小する日本の今後を考えたときに、スポーツ界だけではなく産業界も海外と如何にかかわるかが問われる時代になっていると捉えるのは間違っていないと思います。

 

2,Kポップがグローバル化した理由

 グローバル化が進んでいる隣国の例があります。韓国のエンターテインメント(Kポップ)のグローバル化です。韓国の芸能界が海外進出を進めたのは、1997年に起こったアジア通貨危機が要因です。アジア通貨のきっかけはタイバーツの暴落から始まりましたが、韓国ウォンも急落して、国際通貨基金(IMF)の救済を受けてようやく復活しました。

 

韓国経済を救済するにあたり、産業政策の大転換がありました。まずは労働者の解雇規制の緩和を行い、企業が人員削減を行いやすくしました。貿易政策においては、保護主義的政策から自由貿易に変わりました。その中で財閥の合併や再編が進み、大企業が韓国経済の中心になりました。変更を進める過程で韓国政府は、IT投資に注力し、経済回復を優先させました。その結果情報化社会が進み、音楽業界も急速に変化していきました。旧来のアルバムなどが衰退する中で、韓国のエンタメが情報発信型で、海外にも視野に入れる動きが強まりました。政府も海外進出させることで経済を回すことを考えました。その結果、企画会社が海外進出に乗り出し、韓流のエンタメが世界にあふれるようになりました。

 

 それ以降、日本でも「冬のソナタ」をはじめとした韓流ドラマを多くの日本人が見ることにもなりました。その主題歌の流行にも乗って、韓国人のアイドルグループが日本にも進出してきました。東方神起や少女時代などです。

 

 韓国のエンタメ市場は、もともと日本や中国などと比べても規模が小さく、成長するためには海外市場に目を向ける必要がありました。その中でKポップが更に多国籍化が進んだのは、韓国人だけでなく日本人やタイ人などのメンバーも加えるようになったことも理由のようです。そのことでその出身国でも関心が高まりました。それにより海外進出は加速しました。

 

 最近ではBTS(防弾少年団)がアメリカのビルボードで1位となり、BLACKPINKという女性ユニットもビルボードで1位になるなど世界で活躍しています。BLACKPINKはベトナムでもコンサートがあり、大勢のベトナム人を集めていたことが新聞記事になっていました。このグループは韓国人2名、オーストラリア人1名、タイ人1性ユニットです。また、この3月5日にはビルボードアルバムチャートでガールズユニットのTWICEが1位になったと報じられていました。ここまでくると世界でKポップが支持されていると言えるでしょう。

 

 このように文化の海外進出のきっかけも自国経済の危機が一つの要因になっています。自国だけに閉じこもっていたら、衰退の方向しかなかった韓国のエンタメ業界が、経済危機をきっかけにして、急速にグローバル化できた事実は日本にとっても参考になる事象ではないかと思います。

 

3,日本の教育と海外の教育の違いとは?

 海外で活躍する日本人アスリートはたくさんいますが、日本とは練習方法や身体管理に関する考え方も日本と海外では異なっています。それもまとめて教育の違いによるところも大きいのではと思います。アスリートの海外進出は、海外に行かないと伸びない能力があることも一因ではないかと思います。そのようなことを思いつつ、最近ですが、あるお客様との面談で日本と海外の教育の違いついて雑談したことを思い出しながら書いています。

 

 日本の教育の考え方は、全員が平均的レベルを目指すための教育をしていると考えられます。できないことがあると、できるまでやらせるような教育になっています。あきらめずに繰り返し取り組むことが美徳と考える教育と言えるでしょう。ある記事からピックアップさせていただくのですが、日本の学校には以下のような特徴があるようです。

 

・生徒が所属するクラスや教室が決められている

・先生たちが集まる職員室がある

・給食がある

・生徒たちが教室や施設の掃除をする

・行事ごとが多い

・制服、体操着があり、校内外で履物が変わる(学校によって異なる)

 

 当然、日本の学校の特徴で良いこともあるでしょう。私が社長を務めるベトナムの会社で、月曜の朝30分くらいみんなで掃除をしようと伝えたときに、一部からこんな声が上がりびっくりしたことを覚えています。「私は労働契約で掃除をする契約をしてないのでやりません。」日本人が当然と思うことと、ベトナム人が当然と思うことが違うことを知りました。その後、みんなで関わっているうちにそんな苦情は出なくなりましたが、掃除は決まった業者がするのが当たり前だったのです。

 

 同じ教室で生活をしていく中で、連帯感や協調性が生まれると思います。また、みんなが同じ給食を食べることも貧富の差など感じることがなく、同じであることに安心感があるでしょう。また、栄養素も考えられたうえでの食事でしょうから健康にとっても良いことでしょう。欧米ではカフェテリアで食事をするのが一般的だそうです。日本の教育は全員で取り組む機会を与え、連帯感をもってやり遂げることを目的としているのでしょう。

 

 一方で海外の教育は生徒一人一人の可能性を引き出すことや、個性を伸ばすことに力点を置いているとみることができるようです。海外ではできないことをできるようにするよりも、それぞれの異なった才能を伸ばすことに重点を置いていると言います。日本では暗記型・詰め込み型の教育になりがちですが、海外では考え方を導き出すことを重視していると言います。

 

 日本が義務教育中の留年などほとんど見受けられませんが、海外ではよくあることのようです。大学も日本は入るのに苦労するのですが、海外は卒業するのに苦労をするようです。平均的な人材を育てるのではなく、一芸に秀でた人材を育成することが社会によって重要であれば、欧米式の教育を取り入れることも必要に思います。

 

4,外国人労働力に依存せざるを得ない日本の現状

 日本人の海外進出や韓国文化のグローバルカなどを見てきましたが、日本では現実に外国人の在留が増えつつあります。今後も、外国人に頼らざるを得ないことを考えるとますます増加することでしょう。外国人が就労できる資格の代表格として、技術・人文分野・国際業務(いわゆる技人国)の在留資格がありますが、単純労働に従事させる資格ではありません。高度な業務に従事することを意図した在留資格です。例えば飲食業界に技人国の在留資格者が採用されれば、経理やマーケティングなど事務系のホワイトカラーの業務に従事することに限られます。

 

 日本が少子高齢化する中で、ホワイトカラーではない分野で人手不足が深刻化しています。それに対応するために外国人の在留資格が続々と追加されています。日本社会は外国人労働の助けがないと回らなくなっているのです。2019年に導入されたのが特定技能という在留資格です。特定技能には1号と2号がありますが、1号は最長5年間の在留ができますが、2号に関しては更新の継続により事実上無期限滞在が可能になります。2号については家族帯同も認められます。相当程度の知識または経験を持つ外国人に与えられる在留資格ですので、一定の試験の合格や日本語能力が必要です。

 

 その特定技能2号は現在のところまだ人数は少ないとのことですが、様々な業種で人手不足が顕在化する中で職種の拡大が続いています。2019年にスタートした時2号に関しては「建設」と「造船・舶用工業」の2業種だったのが、2023年にはビルクリーニング、素形材・産業機械・電気電子情報関連製造業、自動車整備、航空、宿泊、農業、漁業、飲食品製造業、外食業の9種類が追加されました。介護を除く特定技能1号で認められた職種が加わりました。介護はほかの在留資格で補うことができるため、特定技能2号には加えませんでした。このような分野では特定技能1号から2号に移行する外国人が増えていくことが想定されます。2号分野の拡大は人材の長期の定着にもつながり、人手不足が深刻な業種には朗報かと思います。

 

 更に現在追加を検討され始めているのが「コンビニ」「トラック運転と配達物の仕分け」「廃棄物処理」です。これらの追加により、外国人労働者は今後増加していくことでしょう。エッセンシャルワークに関して、日本人のなり手がいないため外国人に頼らざるを得ない状況が続いているのです。

 

5,人口減少に伴う危機を迎える日本社会

 このように外国人労働力を確保しようという動きが顕在化している理由として考えられるのが、産業界の人手不足です。しかし、もっと大きな問題が潜んでいます。それは2023年4月に国立社会保障・人口問題研究所が公表した日本の将来人口推計の衝撃です。2023年推計1億2,441万人の人口が、2070年には8,700万人と30%以上も減少すると公表されたからです。日本の少子化対策が一定の成果を上げたとしても、大幅な人口減少は避けられないでしょう。

 

 日本のGDPがドイツに抜かれて、世界第4位になったことが報道されていましたが、すぐに第5位のインドに抜かれるのは確実な情勢です。なぜならば人口が圧倒的に多いインドは多少の経済成長だけでGDPは大幅に伸びるからです。人口減少が経済の縮小と国際的影響力の低下につながっていきます。ドイツは日本より人口が少ないですが、日本に比べて製造業が衰退していないことや、日本の円安の影響が大きかったので、ドイツを再び抜くことはできるかもしれませんが、インドに抜かれたら抜き返すことはできないでしょう。

 

 先日読んだ「2050年の世界 見えない未来の考え方」(ヘイミシュ・マクレイ著)によると、世界の変化をもたらす5つの力として、人口動態、資源と環境、貿易と金融、テクノロジー、政治と統治を上げています。その中でアメリカ合衆国については、世界中から優秀な人材が集まる傾向は変わらず、覇権を維持し続けるだろうと述べられています。その反面ヨーロッパの重要性は低下していき、中国やインドが台頭してくるとみています。日本もヨーロッパの立場と大きな違いはないでしょう。ただし、中国は今後人口減少が予想されることから、微妙な変化はあるかもしれません。世界の人口は第一位がインド、第二位が中国、第三位にアメリカ、第4位がナイジェリアになると予想しています。人口が多い国の影響力は増していくのです。

 

 その様に人口減少は国力の低下をもたらすことから、人口減少の危機を真剣に議論するべき時が来ていると言えるでしょう。2023年現在の日本に在留する外国人の人口比率は2.5%程度のようですが、10%程度増やすことは検討されているようです。長期に在留できる人を増やしつつ、人手不足と産業界の活力を維持することは喫緊の課題のように思います。

 

 外国人労働者に依存する傾向が強くなる中で、日本が外国人に選ばれなくなる傾向も増えてきています。第一には賃金が増えていないことです。円安傾向になって、ますますその傾向に拍車がかかりました。近隣の韓国や台湾に比べても日本の賃金上昇率は低いままで推移しています。外国人労働者にとっては、日本より魅力がある国が増えています。また、技能実習制度にみられる人権問題の影を落としています。転職の制限などの理由もあり、多数の失踪者が発生している制度の見直しは急務です。アメリカの「人身売買報告書」では、日本の技能実習制度で強制労働させられていると指摘されています。

 

 ただ、私はベトナム人と日々接していますが、「日本が好き」と答える人も多く存在します。好きな日本に行くことでスキルやキャリアが向上できて、更にお金を稼ぐことができれば、外国人も日本人もウィンウィンの関係を築くことができます。日本の芸術文化、自然環境や食文化は、依然として世界から注目されています。Kポップのようなエンタメでは韓国が先行していますが、日本のアニメ・マンガのファンは世界中にたくさんいます。それら日本の魅力を発信して、外国人労働者に選ばれる国になる努力はこれからも必要になっていくことでしょう。日本で仕事をし、居住する選択をする外国人が増えれば、日本の衰退はある程度避けられるように思います。日本人も海外に出て共生できる努力をしていますが、日本を出ない人たちも外国人と共生できる努力が必要になっているようです。

 

以上