離婚後、事情を全部知っている親しい人と話していたときに「(相手を)一生許さない?」と訊かれたことがある。
その時は少し考えてから「誰かを恨んだまま死んでいくのはいやだから、死ぬまでにはいつか許せたらとは思うかな」と答えた。
年取ったらそれなりに寛容になれるのかも、と、その時はそう思ったんだけど。
訂正。
いや、決して許さんわ。
私にとっては許しちゃいけない類のものだわ、これ。
と最近改めて思った。
毎日恨みつらみに縛られてはいないし、だいたい思い出してもいない。思い出したくもない。
仕返しなんて考えないしそれより絶対二度と関わりたくない。
ただ「ぜったい許さねえ」
他者の精神・人生を破壊しておいて無事に一生終えられると思うなよ?というのが本心です。
控えめに言っても「血反吐はいて*ね」と思っている。
不条理には寛容ではいけない。
怒るときは「本気で」怒って、抵抗しなければ。
改めてそう思う。
思えば何年も「寛容」でいた結果が、あのクソみたいな元配偶者の行状を野放しにしていることになったわけで。
家庭からは離脱したけれども、暴力や虐待、支配や搾取はほんとにもう真っ平なんで、それに対する怒りは持ち続けないとだめだわ。と。
特定の個人に対する怒り「だけ」ではなく、特定の個人を含めた同じようなヤツとそれを許している仕組み全体に対して。
怒りを持っているといっても、いつも険しい顔をしているとか常に身構えているのでもなく、ただやばい奴・状況に敏感になったと思う。
近づかない・関わらない。
必要ならこっちがやばい奴と思われてもいいから、しっかりブチ切れる。
寛容を出してもいい場面(や人)と出してはいけない場面(や人)を意識できるようになったかもしれない。
おそらく大多数の人は何にしろ他人のことをスルーできるのだと思う。
良くも悪くも。
ただ私はもとから目の前の人や物にいちいち対応してしまう性質で。
誠実で寛容な態度を「誰に対しても」しようとしていた、それが誰にでも通じると、性善説を信じて疑わないお花畑ではあった。
しかし残念ながら邪な人間はいるんだと、いい年になってからやっと理解した。
怒らないこと、実力行使(事実を明らかにして公的に糾弾すること、はっきりと抗議すること、おまえなんかこっちから願い下げだと遁走することなど)をしないことの何がいけないか、というと、加害側に成功体験を与え続けて、相手にそれを(そうした対応をこの人間に対してやっても)よしとされてしまうこと。
被害に遭っている人が、無意識にその支配従属関係の維持に協力している限り、終わらない。変わらない。
話し合おうとしても相手はこちらの言い分を訊く気など毛頭ない(あるように見せるだけ)ので、その状況を動かすにはこっちが行動するしかない。
相手を変えるために行動するのではなく、ぶった切って違う世界に自分が移るために行動する。
人権(個人が持っている、守られるべき人間としての尊厳)って、奪われたことのある者・奪われる危機にさらされた者じゃないと、なかなかそれが侵されていく過程に気づけないんだと思う。
私は家庭っていう単位で、それ(自分の人権が侵害されている状態)に遭ったけれど、社会も国も言ってみれば「家庭の大きいバージョン」。
外で自分の得になりそうな相手にはいい印象を与え、うちでは暴力と支配と搾取。
モラハラ・DV夫と「腐った権力」はよく似ている。
家庭でそんなことになってない人も、社会や国には属している。
人間の考えや行動は必ず環境の影響を受ける。
その「環境」の小さい単位が「家庭」で、その周りに「社会」、そしてそれらを含む「国」や「世界」がある。
無関係にはなれない。
いま「現実に」社会がどんな状態か知ることってすごく大事なことだ。
特に子供のいる人にとって。
自分よりもずっとあと何十年も子どもたちはここで生きていくのだから。
事実や歴史を知ること。
ネットでインスタントに手に入れる情報だけではなく自分で調べたり考えること、本を読むこと、知識を積み重ねること。
それを伝えること、そして一緒に考えること。
私はなんの地位もなく金も力もない凡庸な人間だけど「凡庸な悪」にはなりたくないんですよ。
単純に嫌!自分の美意識として。
誰に注目されなくてもいいし認められるとかもほんとどうでもいいんだけど、自分の一番近くにいるのは自分なんで。
その自分が認められる自分ではいたいと思う。
今日は78年前に日本が敗戦した日。
*ハンナ・アーレントの研究やミルグラムの「アイヒマン実験」について知ると、凡庸な悪がどのようにうまれるか、わかる。