ベクトルが違うってば | この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

2012年より「望郷解毒酒場」という謎のタイトルで書いてきたこのブログ。
離婚後は解毒する「毒」も無くなったのでタイトルを変えました(2021・4より)
*ブログ内のすべての文章・エピソードのコピー・転載は禁止しています。

 

<ベクトル>

大きさだけでなく、向きももった量。例、速度・力

ぐーぐるさんによると、こういう意味なのだが。

 

 

DVやモラハラをするヤツ相手に、努力の方向を間違えると、死にます

精神的にか身体的にか、あるいはその両方で。

 

ベクトルを「夫への恐怖を克服する」ことに向けるとか、論外です。

 

動物でもそうですね。怖い、ってことは身を守るために必要な情動なんですよ。

身を守ろうと、脳内が警告だしてるのに、左脳で説き伏せて火に飛び込んでどーするんだ?!って話なんです。

 

例えば、何らかの理由で対人恐怖になってる人が良い人間関係を結べるはずの人にも、恐怖を感じる、って言うのは、克服する理屈も通ります。

だって、ほんとは怖がらなくて良い相手なのだから。

育ちとか経験の中で人(全般)を怖くなってしまった、だからそれを克服する、のは必要でしょう。

 

しかーし。

現に自分に害を与えてくる良い人間関係を結べない性質の相手への恐怖を克服するってね、「は?」ですよ。

なんのために??

 

そこは、逃げる、一択でいいと思います。

 

努力するべきは、モラハラ・DVしてる本人で、されてる方じゃない。

 

されてる方のベクトルは、自分の人生をよくする方へ向けたほうがいい、というかそれしか向けようがないです。

人間が生きてるって、結局そういうことでしょう。

 

 

頑張る♡とか、負けない!じゃない、です。

 

頑張る方向間違ってます!!ってか、同じ土俵に乗るのが間違ってるのよ。

 

例えばね。

ルービックキューブの大会かと思って出場して、カチャカチャやってたら、横から張り手で力士にぶっ飛ばされる、みたいな話ですよ。

 

頭と感覚を使う競技なはずなんだけど、おかしいなあ、頑張らなくちゃ、って言ったって、向こうはそう思ってないし話通じないんだから再度張り飛ばされるだけです。

 

会場も闘う相手も間違ってる、と気づいて、土俵を降りて自分と同じ競技ができるところに行くしかないのよね。努力はそこへ行くために使うもの。

間違ってたわ、と下りることは負けじゃないし。

 

 

自分らしく生きられる所へ行くことの、不安や怖さと闘うのは、意味があると思う。

「土俵に引き戻そうとして後追いしてくる力士」をぶっ飛ばす力をつける、って意味の努力とか弱さの克服、鍛えるのはアリだと思う。

闘えばいずれ自分の生きたいところへたどり着くんだから。

その経過のなかで「こんなチキン野郎であったわ、」という覚醒の意味での恐怖の克服は、いずれ別の道を行くまでの準備段階では役に立つかもしれない。

 

しかし、相手との関係を回復するために、恐怖を克服するとかありえないです。

 

そもそもそういう相手との関係の「回復」ってなんだ?

表面的に仲良くなり、目立った暴力や暴言がなくなり、そういうことですかね?

 

その場合、被害を受けてた側は、恐怖を我慢し克服する努力をし、仲良くなれるよう配慮するんでしょうが、相手はどうなんでしょう?

何か努力してんの?

暴言や暴力を辞める努力??

てか、暴力も暴言も、普通の男なら初めからまったくやらないことですから。

もっと以前から、自分の感情と行動をコントロールできるようになっとけよ、ってことです。今更、自慢できる「努力」じゃないし。

 

一度本質に気づいてしまったら、私はそんな人間とは居たくないです。

 

そいつにとって都合のいい「努力」をし続けるなんて、ご免だ。

散々してきたから言えるんですけどね。

その努力は、じつは「私」のためには全くならない、「相手」にとって、非常においしいもんなんです。

 

私はひとりで生きられるけど、実は相手は私(あるいは私の役割をする人間)が居ないと生きられない矮小な野郎なので、「私」が努力すればするほど安泰なのは相手なの。

 

いま被害に遭ってるあなたと相手との関係にも当てはまるんじゃないだろうか。

 

 

お互いの努力で良い関係を作っていくって、普通の大人の男女なら当てはまりますけど、努力で、本当に円満な関係になれる??

モラハラ・DV加害者と被害者が。

 

表面的にはそうなるかもしれないけど、人間ってそんな単純じゃない。

一度味わった恐怖とか、精神的な外傷は、自分で認識できないまま深く残ります。

 

 

人間関係で失ったものや傷ついた部分は、人間関係でしか癒せないし回復できない、とは言われますが、傷つけた相手・恐怖の対象に癒してもらうとか、まずありえないと思います。

 

他にもっとより良い関係があった、あんな関係の中で傷ついたことは、自分の努力不足とか責任ではなく、多くは相手の問題だったのだ、と別の良い人々のなかで気づいて回復していくのが、当然な形だと思う。

 

脇腹をざっくり刺されて運ばれた挙句に、刺した奴に「私があなたの看護をします、怖がらないでね、」とか「恐怖を克服して回復に向かいましょう」と言われたとしたら、私は逃げますね(笑)

 

別の看護者にして!!と叫ぶでしょう。

 

そんな感じですよ。関係改善のために恐怖を克服する、って。

変でしょ。

 

だから努力のベクトルは、まず自分の安全と安心な人生を生きるための方角へ向けたほうがいいです。