”修羅道手前の者を嗤うな” | この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

2012年より「望郷解毒酒場」という謎のタイトルで書いてきたこのブログ。
離婚後は解毒する「毒」も無くなったのでタイトルを変えました(2021・4より)
*ブログ内のすべての文章・エピソードのコピー・転載は禁止しています。


にしおさんのこの記事。

キャラメル味のpopキャンディーなめながらコーヒー飲んで何となく読みながらちょっと泣いた。

 

そう、それな。と言う感じ。

 

私も自分の記事で以前、アウシュビッツのことと、DVやモラハラは、

人間の尊厳を奪うという点で、相似形なのだと書いたんだけど

どう考えたって、こっちの方が「小さい」の。

(だから許されるとかだからどうでもいいってことじゃないですけどね、決して)

 

彼らの受けた絶望や苦しみに比べたらマシ、そう思ってたとこはある。

彼らはどうしたって逃れようがなかったし、闘いようもなかった。

内面で精神で抵抗し続けたとしても、

いずれにしても命は奪われることになった。

 

でも、私は怖いし大変だし先が見えない気力が失われてる自信もないとしても、自分をそこから救う方法は探せばあるわけで、どこへいっても国民全員が敵、というような状況でもない。

 

だからまだマシ、といって留まる甘んじるんじゃなくて、このまだ何とかしようのある状況で、何もしないんじゃ亡くなった「彼ら」「彼女ら」に申し訳ない、とか勝手に思ってる。

 

全く自分に無関係な人とは思えないのでね。

理不尽で不条理な虐待に遭った人はすべて。

時代とか国とか関係なく。

 

苦しみには2種類あるそうだ。

ひとつは人間を成長させる必要な苦しみ。生活の中で人生の出来事の中で与えられる成長の機会。

もう一つは人間性を奪い人格を破壊する、決して受け入れてはいけない苦しみ。

 

ふたつ目の苦しみで感じる「苦しさ」は、

「それを受け入れてはいけない」という証左なのだそう。

自分の核の部分が訴えている声。

 

その苦しみを明らかにして証言することは

同じ苦しみに遭っている人に対する助けになり道を作ることになる。

 

ブログや情報発信の意味というのはそういうことでもある。

もっと勇気のいる、犯罪を告発する訴える、っていうことも

そういうことだ。

 

散々しんどい目に遭ってきて、まだ闘わなきゃいけないのかよ、と思うと、こう、、虚しいというかうんざりというかいやになるのだけれども。

 

 

闘わなきゃいけないわけよね、まだ。

ったく、クソが。