15年ぶりにフィリピンに帰ってきました泣き笑い飛び出すハート


いとこ達との再会ニコニコ

私はお父さんがフィリピン人
お母さんが日本人の、いわゆるハーフにっこり

私は日本で産まれて4歳のときに
家族でフィリピンに引越しをしましたにっこり
お父さんはフィリピンに家を建てて
おばあちゃんと、お父さんの弟と
みんなで一緒に暮らしはじめました。

フィリピンでの生活はすべてが新鮮で
毎日が本当に楽しくて、今思えばフィリピン
の環境とエネルギーが私には合っていた
のだと思います昇天

私は自然と動物が大好きな天真爛漫な
子供でした爆笑


私が5歳になったとき、私は母に強く
お願いをして大好きな犬を飼い始めました。
そのワンちゃんに「パピーちゃん」と
いう名前をつけてずっと一緒にいましたよだれ飛び出すハート

フィリピンでの生活は私の人生で1番
幸せな時間でした。

このまま私はずっとここで生きて
いくんだろうなと、
そう強く思っていました。

でもわたしが6歳になった頃、
両親は日本に帰ると言い出しました。

正直細かいことはあまり覚えていませんが、
私はあまりのショックに毎日泣いて
母の言うことを何も聞かなかったような
気がします。

私は口を開けば「帰りたくない!」
「私だけ残る!」「パパとママだけ帰って!」
と言っていました。

フィリピンにいれないこともショック
でしたが、パピーちゃんと離れることが
辛くて辛くて子供の私にはどうしても
それが受け入れられなかったのです。

両親の中でパピーちゃんを日本に連れて行く
という選択肢は存在していませんでした。

毎日、泣いて反抗する私に
母は言いました。
「仕方ないやんか」
私の人生をかけた反抗、フィリピンに残る!
という強い決意も
母にとってはただの子供のワガママでしか
なかったのです。

今、自分が母親になってみて
当時の母の気持ちは痛いほどわかります。

けれど、子供には子供の本気の
純粋な願いがあるのです。
けっして「仕方ない」という言葉や
その場をやり過ごして機嫌をとるような
対応をするべきではないと思っています。

私は結局パピーちゃんを置いて日本に
帰ってきました。(おばあちゃんと叔父は残る)

このときのことが私の心に大きな傷に
なって残っていると気づいたのは
私が34歳のときでした笑い泣き
 
私は「仕方ない」という言葉が
大嫌いでした。
動物が大好きなのに、自分は動物が好き
だと言う資格がない人間だと
ずっと思っていました。
この世界は強く望むことほど叶わない世界
なんだと潜在意識の深い部分に
刻まれていました。

5歳のときの、このそれなりによく
ありそうな出来事、、、
それが私の人生を何十年と縛り付ける
ものになるのです。

魂の感覚の強い、繊細で感受性の豊かな
子供ほどこのような体験がその後の
人生を大きく変えてしまうのです。

そういう子供たちに
どうか対等に本気で向き合って
あげてください。


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