存在とは「あること」である。人や動物であれば「いること」とも言う。目の前の机の上にリンゴがおいてあって、「この机の上にリンゴがあるか?」と問われれば、その答えは極めて簡単である。しかし、「神は存在するか?」とか、「この世界は、自分が認識しなくても存在するのか?」とか、「心は存在するのか」とかと問われて「Yes」「No」で簡単に答えることはできないであろう。これらそれぞれの問いにおいて、「何をもって存在すると言うのか」を考えなければならない。
「リンゴそのものは存在するか?」に対して「リンゴそのものというリンゴはないけれど、リンゴ一般を指す「リンゴ」という概念は人々の間で通用している」と言えるし、それと同様に「神は存在するか?」に対しては、神の存在を確認することはできないけれど、「神という概念は人々の間で通用している」ということができる。概念が通用しているということは観念として存在していることになるが、観念として存在していることは、物理的存在や精神としての存在との関係はどうなのだろうか。私は、観念として存在することは、現実に存在することと区別されるべきと考える。
観念としての存在以外にも、「心は存在するのか」という問いもある。デカルトはすべてを疑ったとしても「疑っている自分」が存在しないということあり得ないとして、「考える私の存在」を哲学上の第一原理とした。しかし、「リンゴが机の上にある」というのと「私には心がある」というのは、同じく「存在」すると言えるのだろうか。リンゴは物理的存在で、心は精神的存在だから、違うと言うことはできるが、物理的存在と精神的存在との「存在」としての共通性とそれらの関係はどういうものだろうか。
このように考えていくと何をどう考えればよいのか訳が分からなくなるだろう。哲学において際限のない論争が繰り返されているのは、これらの様々な存在をどのように扱うべきかが明確にされていないことに原因があるように思われる。
一般的には、世界のすべての存在を精神的存在と物質的存在に分けて、精神的存在と物質的存在のいずれが根源的な存在と考えるかによって、唯物論と観念論に分けられる。
観念論は客観的観念論と主観的観念論に分けられる。客観的観念論とは、要するに「世界は神によって創られた」という考え方である。
主観的観念論とは、世界が存在すると思うのは、自分にそのような感覚が与えられているということにすぎないという考え方である。つまり、夢の中の世界が幻想であるのと同様に、本当に世界が存在することを証明することはできないというのである。 「この世界は、自分が認識しなくても存在すると言えるのか?」という問いに対しては、「どうあれば「存在する」と認めるのかを問い返す必要があるだろう。自分の見知らぬ他人が、同じことを言っていたら、「何を言ってやがる。お前なんかが俺を認識しようがしまいが、俺は存在するのに決まっている」と私は言う。「この世界は、自分が認識しなくても存在すると言えるのか?」という問いは、自分の心の中に留めて置くしかないバカげた「たわごと」である。
存在を考えるカテゴリには、(1)物理的存在(物質、法則性)、(2)精神 (心)としての存在、(3)観念としての存在という三通り存在を区別して考えなければならない。(2)精神 (心)としての存在については、広い意味での物理的世界の生理的心理的現象と考えることは可能である。しかし、特に(3)観念としての存在は、現実世界の存在とは明確に区別されるべきである。