自分の意識の存在は誰もが確信できるでしょう。デカルトは、正しく考えるために疑いようのない原理からスタートしようと考えました。そして、自分が信じていた全てのことを疑ってみました。私たちが当然のこととして信じているもの、たとえば世界の存在や他者の存在など、すべてが錯覚や夢である可能性があると考えました。しかし、すべてを疑っても「自分が考えている」という事実だけは疑うことができないことに気づきました。これが有名なコギト「我思う、ゆえに我あり」です。
自分自身の意識の存在に関しては、すべての事を疑っても疑うことができない一方、他者の意識の存在については簡単ではありません。自分の意識のように直接実感することができないからです。だから「他者が意識を持っていることを証明することはできない」ということになるのでしょうか。
そもそも証明とはどういうことでしょうか。基本的には「ある命題が真であることを論理的または事実に基づいて示すこと」ですが、自分自身の意識の存在(コギト)と同じレベルで確信できなければ、証明されたことにならないのでしょうか。
世の中には、論理的証明や数学的証明、科学的証明、裁判における証明など、様々な証明がありますが、どれもコギトレベルの証明ではありません。コギトは合理的に考えることができなくても成り立つかも知れません。しかし、論理的証明や数学的証明にしても、自分の合理的理性の存在が前提となっており、自分の理性を疑えば、その証明はすべて疑わしくなります。科学的証明なども世界の存在を疑えば、何も証明になっていません。「裁判における証明」など、実社会における証明などどれだけあてにならないものかは言うまでもないでしょう。
私がここで言いたいことは、コギト以外は証明にならないということではありません。私が言いたいことは、「証明」という概念は、それぞれの状況において必要十分とされるレベルがあるということです。
「他者の意識が存在する」か否かは科学的事実に関する命題であり、これは科学的に証明すべき問題です。「他人の意識は自分の意識のように直接実感することができない」というのは少なくとも科学的な主張ではありません。科学的命題は私の主観的意識に基づいて決定されるものではなく、客観的事実に基づいて証明されるべきものです。「他人の意識は自分の意識のように直接実感することができない」から証明にならないというのは、客観的世界の存在を否定する独我論に執着することに他なりません。
他者が意識を持っていることを科学的に証明するためには、いくつかのアプローチが考えられます。
●行動と反応の観察
私が他者も意識を持っていると信じるのは、彼らが私たちと同じように複雑な感情を示したり、共感したりし、また私とは独立して意思決定をして行動いることを見ているからです。例えば、友人と冗談を言って笑い合ったり、悩みを打ち明け合ったり、他人の何気ない行為からその人の思いやり感じたりしています。また、いろいろな他人の話から、それぞれが悩みながら生きていることが、その心の動きと共に伝わってきます。
●神経科学的観察
意識と脳の活動には関連性があることは科学的に確認されています。脳の特定の領域が活動していることが意識の証拠とされることがあります。これに対して「意識そのものの証明」ではなく、単に脳の働きを示しているだけではないのか」という主張もあるが、自分のある意識の状態における脳の活動が、他人にも同様に現れるならば、他人にも意識があると考えるのが科学的に妥当でしょう。
●哲学的アプローチ
最終的にはどのような哲学をうちたてるかによるでしょう。しかし、科学における意識と脳の活動との関係についての研究成果を無視して、 哲学において、他者が本当に意識を持っているかどうかを証明にならないとすることは、哲学を他の学問と遊離させ異質な学問とすることになるでしょう。
人工知能と意識を比較すると、 今日のAIは人間のような知性を持っているかのように見えることもあるかもしれませんが、単にプログラムに従って情報を処理しているだけであり、意識があるわけではありません。将来、AIが著しく発展してさらに意識を持っているかのように見えるようになるかもしれませんが、あくまでもそのように設計されたものです。他者が意識を持っているかどうかは、単なる情報処理以上の情感をもっているかどうかで判断することは可能でしょう。