カントの認識論では、感覚の経験において時間と空間という直観形式が、悟性においては質や量、因果関係や相互関係、可能性や必然性や偶然性などの12のカテゴリ(認識のための枠組み)が働くとされます。これらは経験的に得られるものではなく、先験的(アプリオリ)なものとされます。
フッサールの現象学では、感性の直観形式や悟性のカテゴリのようなものは前提とされていません。また、物自体の存在不存在については、判断停止し、どちらの立場もとりません。しかし、自我の意識に他者の身体が出現し、他者の身体は私の身体と類似していることから、そこに自我と同様のものが移入され「他我」とされます。他我を仮定することで、客観的世界に関しても、共同主観性において客観的世界は自我に与えられた世界で内在化され,その客観性が基礎づけられることになります。ただし、カントにおいては悟性の認識の及ばない物自体の世界は客観的世界にとどまらず、道徳や宗教的世界も含むように思われます。
カントの認識論とは
大雑把に言えばつぎのような感じです。
私達が自分の外の世界にある物を認識するときは、その物から感覚の経験が与えられて、その感覚から得たものから、私たちの知性が感覚で得た情報を整理して、その対象がどのようなものかを認識します。
カントはまず感覚の経験が与えられるときに、時間と空間という形式がなければ経験が成り立つことができないと考えました。そして、時間と空間という形式は、自分の外の世界にあるのではなく、人間の経験を可能とするために、人間に備わっているものだと考えました(納得しにくいかも知れませんが、カントはそう考えたのです)。
そして、その経験から得た内容を、知性(悟性ともいう)により整理するとき、質や量、因果関係や相互関係、可能性や必然性や偶然性などの12のカテゴリ(認識のための枠組み)を使って整理して認識するのだといいます。そして、このカテゴリも、経験によって得られるのではなく、人間がものごとを認識するために、生まれつき(アプリオリ)人間の知性に備わったものだと考えたのです。(12のカテゴリもなぜそれらが選ばれたのか分かりにくいのですが。)
ですから、自分の外の世界にある物を認識するときは、まず、感覚において、「時間と空間」という形式のフィルターをかけて感覚の経験が作られ、さらに知性で認識するときには「カテゴリ」というフィルターをかけて認識が作られるのだということです。このように人間の認識は、外にあるものをそのままに認識するのではなく、人間の感覚と知性において、形式やカテゴリを使って人間の側で構成されるのだということです。これが、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従わなければならない」という「コペルニクス的転回」です。(カントはそう思ったのですが、私には、地動説から天動説へという「反コペルニクス的転回のように思われますが。)
これらの形式やカテゴリなしには、人間の認識は成り立たないわけですので、人間の認識は、外の世界のありのままの「物自体」を認識することはできない、ということです。なお、カントにおいては人間の理性の認識の及ばない「物自体」の世界は、客観的世界にとどまらず、叡智界として道徳や宗教的世界も含むように思われます。
いろいろと突っ込みどころはあるのですが、人間の認識能力は限られているというところが、結構多くの人々に好まれているようです。
私個人としては、時間や空間やカテゴリが主観の側にあるというのは、まったく同意できないのですが、認識においては、主観が構成する側面があることを指摘したことは正しいと思います。私たちは果物が並んでいるのをみて、リンゴやオレンジやいろいろ認識していますが、それは自分の知識をあてはめてリンゴやオレンジの集合体として認識しています。ありのままでみているつもりでも、主観的な認識が誤ることがあるのは、そのせいです。現実には偽のリンゴが混じっていても、認識しているのは本物のりんごだけがあると一見して判断してしまいます。(かといっても、偽のリンゴと物自体とは、まったく別の話です。)
現象学とは
私たちは、自分の外に世界があって、そこにある事物の情報が光や音などの媒体により、私たちの感覚器官に入ってきて、世界を認識していると考えています。これを「自然的態度」といいます。私たちが、感覚器官の情報からどのようにして、自分の外の世界があると確信するように至ったのかというと、その過程について私たちは無関心でいます。しかし、夢の中で事物があると思っていても、目が覚めるとそれらは幻だったことに気づくように、その時点で現実だと思っていても、それが夢でないという証明はできません。そこで、私たちの認識がどのような構造のもとで成立し、私たちの確信を構成しているのかを解明しようとするのが現象学です。したがって、現象学は世界観というよりは、意識現象から、どのような構造のもとで私たちの確信が構成され、認識が成立するかを探る方法ということができます。(私個人の考えでは、私たちの認識は、生活し行動する中で行われるのであり、頭の中だけで行われるものではありません。それにもかかわらず、現象学という方法は、認識を自分の意識のみに由来するものとしており、主観的観念論であることは否定できません。メルロ=ポンティは、意識現象は身体感覚と一体ものとして、主観と客観との対立を克服しようとしていますが、成功しているかどうかは疑問です。)
そこで、私たちの意識現象が現われる構造を解明するために、まず自分の外に世界があるという「自然的態度」を捨てることが要求されます。自然的態度の先入観と、自分の外の世界の事物を括弧に入れて保留にします。これを「エポケー(判断停止)」といいます。すると、私たちに与えられているのは、私たちが認識する前に存在している事物ではなく、私たちの主観の意識に現れたものから、構成されたものであると考えることができます。このように考えることを「超越論的還元」といいます。
私たちの意識には、五感による感覚的な「直接経験」としての意識内容があり、私たちの主観に対して、事物の存在の確信を作り出す自我の働きがあります。直接経験される意識内容を総合して、例えば目の前に見えているリンゴという対象として構成されます。知的経験において構成されて現われる知覚対象のことを「現出者」といいます。
夢の中の事物が幻であるように、私の意識の外側に何かが存在していること、あるいは存在していないことについて、絶対的な保証を与えることはできません。そのような不確定さはどこまでも残り続けます。それでも、ある対象が自分に見えていること、そのような知覚や判断が私の意識に生じていることまで疑うことはできません。すなわちそれは、絶対的に与えられているもの(絶対的所与)として承認せざるを得ません。絶対的所与まで疑うことは無意味です。
意識に現れる現象がどのような構造のもとで成立し、私たちの確信が構成されるかを明らかにし、私たちの認識の条件を解明するためには、もはや疑うことが無意味であるような認識から出発する必要があります。そして、「絶対的所与性」こそが、合理的に考える限り受け入れざるを得ないようなものです。
このように、意識の外側に客観的世界が存在するという考え方を判断停止し、内在的知覚から与えられる絶対的所与性から客観の認識の条件を解明することが、フッサールの現象学です。つまり、フッサールは、内在的知覚に与えられないものを認識論の原理とすることはできないと主張しているのです。(認識はまず私たちの主観として構成されるものですから、内在的知覚に与えられないものは認識できないということは確かです。しかし、最終的に客観的世界を認識するにあたっての真理の基準は内在的知覚にあるわけではなく、実験や観測に基づかなければなりませんから、真理の基準は客観的世界にあるはずです。)
フッサールによると、自我の意識に他者の身体が出現し、他者の身体は私の身体と類似しているため、自我と同様のものが移入され「他我」とされます。他我を仮定することで、客観的世界に関しても、他我との共同主観性において客観的世界は自我の所与の世界でも内在化され,その客観性が基礎づけられることになります。ただし、前述のように、カントにおいては人間の理性の認識の及ばない物自体の世界は、客観的世界にとどまらず、道徳や宗教的世界も含むように思われます。
デカルトは、考えている自分をの存在を疑いえない第一原理を出発点としましたが、フッサールは、対象に関する知覚として私の意識に現れている生じている絶対的所与を出発点とします。