宗教的な世界観に立つならば、「全知全能の神が、自分をこの世に生まれさせたのには、きっと何か意味があるはずだ」ということになるのでしょう。そして、全知全能の神の意志など、愚かな人間にとって「人智ではたどり着けない」という「生きる意味」を想定するのでしょう。
しかし、全知全能の神を信じない者から見ると、人間以外の動物は、生きる意味など考えることがないままに生きています。つまり、生きるために「生きる意味」など本来ないものです。「生きる意味」というものは、人間が作り出したものであり、「生きる意味どこかにあるはずだ」というのは幻想だと考えることもできます。その場合は、「人智ではたどり着けない生きる意味」など無意味なものでしかありません。
◆何のために生まれてきたのか
自分は何のために生まれてきたのだろう。誰でも一度は疑問に思うことです。しかし、人間は、何かの手段ではありませんし、何かのために生まれてきたのではありません。歌舞伎の家や家元とよばれる家に生まれてきた人は、後継者として「期待されて」生まれてきたということはあるかも知れません。また、普通のの家においても、似たような期待はあるかも知れませんが、それに従うことが絶対ではないでしょう。親の期待にこたえるかどうかは最終的には自分が決めることだと言えます。自分は何のために生まれてきたのか、という問いに対する答えはないのです。
◆人生の意味は自分で創り出すもの
人生の意味は、家や他人から与えられるものではなく、自分が創り出すものでしょう。それは「自分は何のために生まれてきたか」ではなく、「自分は何のために生きるか、どう生きたいのか」を考えるということだと思います。
それではどのように考えればよいのでしょう。自分が好きなこと、向いていることをすでに見つけて、それに向かって努力することができる人は幸福な人でしょう。特に目的もなく学校を卒業して就職した人も、一度自分の置かれた場所において、自分を見つめ直すこともよいのではないでしょうか。
◆エゴイズムと幸福
人生の目的は、自分と人々の幸福を追求することに尽きると思います。自分の幸福と、自分に身近な人々の幸福、そして社会の幸福です。自分に身近な人々の幸福は広い意味の自分の幸福ということができるかもしれません。
大切なことは、エゴイズムの空しさを知ることだと思います。人のため、社会のためになってこそ、人は幸福を感ずることができるものだと思います。
詐欺まがいの怪しげな商売で、お金を稼ごうとしている人々がいます。彼らにとっては、人は手段でしかありません。しかしこれほど不幸な生き方はありません。自分のためというより家族のためにそのような仕事をしている人もあるかも知れませんが、それも家族を不幸な生き方の巻き添えにしているにすぎません。エゴイズムによる生き方は、その人が死ねば何も残りません。残るのは、社会に害を及ぼしたという事実だけです。
◆利潤の追求
資本主義社会において、企業の利潤の追求そのものを否定することはできません。企業は、社会の需要を見出し、これに答えることによって、社会に貢献するという側面があります。また、コスト削減のために、無駄をなくし効率を向上させることも、悪いこととはいえません。無駄をなくすることは、資源の有効利用であり、社会全体にとっても有益な側面もあります。
ただし働く人々を犠牲にした効率性は真の効率性とは言えませんし、手段を選ばない利潤追求は非難されなければならないでしょう。企業は、企業としての論理に立つのではなく、社会あっての企業、従業員あっての企業であることを自覚して、事業を進めるべきだと思います。
◆人生と社会
人は死んだら名を残すと言われます。しかし、歴史に名を残す人は数えるほどしかいません。多くの人々は、身近な人々しか知らないささやかな人生を送ります。しかし、このような無数の人々が社会を支えているのであり、社会の未来を支えているのです。歴史に名を残す人たちは、時代のシンボルであり、彼らを支えた名もない人々があってこそ名を残したのだと言えます。
製造業であれ、サービス業であれ、ささやかであっても、社会のため、人々のためになる仕事を選ぶことが大切ではないでしょうか。
立身出世を志して努力することも、それ自体否定されるべきことではありません。ただし、どのように名を成すかにしても、社会のため、人々のため、という観点からスタートすることが大切だと思います。