●自由意志とは

  人体は、脳を含めて物質からできている。物質は意志を持っておらず、自然法則に従っているように思われる。脳を含めて人間の身体が物質から構成され、その物質を自然法則が支配しているのなら、なぜ自由意志が成立つことができるのだろうか。私たちが持つ主体性や自由意志とは何なのだろうかという疑問がわく。そもそも物質が自然法則に従うだけの存在であるならば、自分の人生も、現在は過去の結果であり、未来は現在の結果として、全てが定まっているのではないだろうか。これが物理学的決定論というものである。

  全てが決まっているという考えには、宗教的な神学的決定論もある。世界は全知全能の神によって創造され、世界の出来事のすべては、神により定められているというものである。

科学的に考えようとする人は、このような神学的決定論をとることは少ないと思われるが、神の存在に関しては疑問を抱いている人々も、物理学的決定論となると明確な回答を持っている人は少ないように思われる。唯物論者と称する人々でさえ、同様である。

  「リベットの実験」が現れてからは、積極的に自由意志を否定する心理学者や科学者が増えている。(リベットの実験については、本ブログの「リベットの実験は自由意志の実験か」を参照いただきたい。)

  そもそも自由とは何なのか。自由意志の定義をまず明確にする必要があるだろう。Wikipediaでは「他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう」とある。「自己自身の本性」というのがよくわからない。広辞苑ではいろいろと自由の定義があるが、広義では「こころのままであること。思う通り」というのでかまわないであろう。「責任をもって何かをすることに障害がないこと」というのもあるが、「責任をもって」というのは社会性の観点が含められているが、当面、心身問題及び自由意志問題を考える上で、この点は無視して良いであろう。

  自由意志について考える場合、私自身は「こころのままに思う通り」に行動していると思っていても、それが自然法則の必然的結果なのかもしれない。ここでの「こころ」は果たして主体性を持ったものなのかどうかが問題なのである。さらに、自由意志の条件を主体(能動)性におくと、無限後退の問題が生じる。例えば、あなたが自分の意志で右手を挙げたとする。当然あなたは自由意志の行動だと思うであろう。しかし、あなたが手を挙げる意志が、「何となくその気になった」のであれば、あなたの右手を挙げた意志は果たして自由意志なのだろうか。となると、「その気になった」のもあなたの自由意志でなければならない。それではあなたの自由意志で「その気になろう」と思って「その気になって」右手をあげたとして、そもそもなぜ「その気になろう」と思ったのだろうか。ここでも「何となく」であってはならないだろう。このようにそれ以前に遡る自由意志が無限に必要になってくる。しかし、このような自由意志を想定することは、現実の自由意志に即したものとは言えない。 自由意志によって完全なコントロールができなければ、自由意志ではないと考えることは誤りである。我々の意識は、自己の完全なコントロールの下にあるわけではない。一方、完全に無意識にコントロールされているものでもない。意識に次々に浮かぶ様々な心の動きは、意識でコントロールできるものではないが、それでも、一定の範囲内で、意識的に一つのことにある程度集中して考えることもできる。

  我々の意識の働きは、我々が、日常において感じるままの在り方をしているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。自由意志は心の完全なコントロールではあり得ないし、そうある必要もない。我々の意思決定は我々にとってあるがままのものである。

  このように、主体性を自由意志の基準にすることはできないように思える。それではどうすればよいのか。

●自由意志の3条件

  私は自由意志の条件として、次の3点が考えられる。①未来が不確定であること、② 複数の選択肢があること、③意識的な選択があること、の3点である。これらが最小限満足されれば、私達が考える自由意志の概念は満足されるように思われる。人間は自然法則や本能から逃れることはできないとしても、これらの条件が満足されれば、我々が実感しているような自由は存在すると言えるのではないだろうか。

  ①の未来が不確定であることについては、もし未来が確定しているならば、必然的に決定論となるであろう。その未来を私自身が知らなくても自由意志は錯覚に過ぎず、自由意志があるとはいえない。決定論を否定するためには、未来が不確定でなければならない。確定している未来を知らなくても、本人が自由に行動しているとおもっているなら自由意志があると言ってもよいという意見もあるが、決定論と自由意志を両立させることはできないと私は思う。

  そして、私は、量子論的な不確定性こそが、未来の不確定性を示していると考えている。John Searleは、「量子力学的不確定性はRandomnessを与えるだけで、自由を与えない」と言っているが、Randomnessが具体的にどのように自由意志を可能にするかはともかくとして、全てが機械的な必然性の連鎖であれば、自由意志の成立の余地がない。少なくとも量子力学的不確定性は、確率的ではあるが、未来の不確定性を証明するものと言える。そして、自由意志とは、意識がその不確定性の確率に影響するということではないかと思う。

  量子乱数発生器が、熱狂するサッカー場などで、通常と異なる挙動を示すと言われるが、それが事実であるならば、人間の意識が量子の状態に、影響を及ぼしていることの証明のひとつとなるであろう。このような人間の意識が量子の状態として営まれ、意識と量子状態が作用し反作用することにより、意志が形成され、肉体の運動を引き起こすのではないのか。我々の自由意志や意識と、量子力学的不確定性とは、作用反作用の関係にあり、微妙なバランスの上で成り立っているもののように思われる。

  ② の複数の選択肢があることについては、ある行為をするかしないかの選択肢さえもなければ、決定されているのと同じで、自由の余地はない。逆に、ある行為をするかしないかの選択肢であっても、いずれかを自分の意志で選択できれば、一応の自由意志は成立するといえるであろう。①で述べたように、未来が不確定であり、複数ある選択肢のひとつを私の意志が選択したのであれば、それは私の自由意志による選択と言えるであろう。

  ③の意識的な選択があることについては、意識的な選択がなければ自由意志に基づく行動にはならない。意識的な選択に関しては、様々なレベルが考えられる。私達は日常的な行動において、明確な意識的決定をしていないことが多い。意識的行動であっても、どの筋肉を動かしてというような行動の詳細は殆ど意識しないで行っている。また時にはある行為をしたかどうかさえも忘れていることもある。このように、その意識する程度はいろいろ段階がある。しかし、このような行動は、あまり意識しないで行動することがあったとしても、元々は意識的行動であったものが、その習熟や習慣化によって無意識化してきたものであって、意識しているレベルが低いからといって、自由意志と無関係とは言えないだろう。

  例えばバッティングを練習するときは、何度もボールを打つ練習をして、ピッチャーの投球に対して、無意識で最適のスウィングで打てるようにしようとする。そして、実際に打つときは、殆ど投手の動きとボールのことしか意識しておらず、いつ打つための動作を開始するかとか、どのように筋肉を動かして、手首をどうするかなど無意識に行われているのではないだろうか。しかしその動作は自由意志に基づく動作ではないとは言えないであろう。むしろ、無意識のうちに最適なバッティングができることこそ、バッターの目標となっており、自由意志にかなうものとなるのである。

●自由意志に基づく重要な行動は中長期的な行動である。

 さらに基本に立ち返って、そもそもリベットの実験での手首の動作は、自由意志に関するものであろうか。被験者は、実験に参加することを決定した時点で、実験で行う動作は決められている。手首を現時点で動かすか、それともその10分の何秒後に動かすかは、自由意志の問題であろうか。したがって、リベットの実験での発見から、自由意志は幻想であるとの結論を短絡的に導き出すことには、疑問である。

 人間の自由意志は、その人生を通じて培われるものである。何の喜びも価値観も伴わず、いつ手首を動かすかが、自由意志を代表する実験になりえるのであろうか。自由意志は幻想であるとの結論を導き出す科学者がいるのであれば、自由意志について、もっと思索を深める必要があるのではなかろうか。

 自由意志による行動として重要なものは、勉強して資格を取ろうとか、頑張って練習してプロのスポーツ選手や歌手、芸能人を目指そうとかいった、人生に関わる中長期的な意思決定こそ、自由意志として重要なものであり、いつ手首や指を動かすかというような単純な動作など、本来の自由にとっては取るに足らない些細なものでしかない。

●自然法則の問題

人体は、脳を含めて物質からできており、物質は意志を持っておらず、自然法則に従っている。脳を含む人間の身体が物質から構成されているのであれば、その物質は、自然法則により支配されていることは否定できないであろう。そして、脳で生まれる精神により、自然法則がゆがめられるということはないであろう。しかし、物質の究極的な本質がエネルギであるならば、単なる受動的な存在ではない。人間の主体性は、本来物質の持つ原始的な主体性が、人体及び脳において高度に組織化されたものということができるであろう。

●本能の問題

人間が動物であり、外界と物質代謝により生命を維持していることや、動物としての本能がその感情や意志に影響していることは当然である。また、人間としての幸福やしかし、本能に支配される面があるからといって、自由意志があり得ないことにはならない。自由意志は、自然法則や本能や動物としての制限の下での、ありのままの自由意志であり、それ以上でもそれ以下でもない。