私たちは心を持っていますが、これは、心が存在していると私達が考えていることを意味します。心が存在するということは物理的に存在していることを意味するのでしょうか。
◆小説本と小説の内容との関係
話が本題から離れるかもしれませんが、この問題を考える前に、小説を印刷した本と小説の内容との関係を考えてみましょう。本という物体には、小説の内容に対応した文章がインクで紙に印刷されています。この印刷された文字の集まりは、小説の内容ではありません。小説の内容は読む人がいない限り、観念として現象することはありません。したがって、小説の内容は、その内容に対応した本に印刷された活字の文章に還元することはできません。小説の文章は作家が創ったものですが、作家がイメージしたものと、読者がその小説を読んで頭の中に浮かぶイメージは同じではありません。したがって、小説を印刷した本には固定された観念としての小説は存在しません。あくまでも個々の読者によって異なったイメージとして再生されるものです。
◆脳と精神との関係
精神とその精神に対応した脳の状態についても似たようなことが言えます。ただし、本は物体であり、その内容にも考える主体は存在しません。一方、脳は精神の働きが産み出される場を形成するものです。私という主体は、物質的には肉体と脳により支えられていますが、さらに私という意識を含んでおります。精神は、小説を読んだ時の読者の頭の中に描かれたイメージと同様に、脳により生み出される観念であり内容を持っており、その時の精神に対応した脳の物理的状態そのものではありません。精神の内容は物理的に存在するものとは言えません。しかし、私の精神は、私の脳の物理的な状態の上に成り立っており、意識が働いている間、私の脳にはその意識に対応する稼働状態が存在し、私の精神に対応する物質的基盤は、私の脳において物理的に存在していると思われます。
◆精神の内容と脳の物理的状態との弁証法的関係
私は、心身問題を正しく理解するためには、精神の存在と精神の物理的存在性とは弁証法的に把握する必要があると思っています。精神は、物理的な存在ではないと同時に、物理的な存在なのです。すなわち、精神の内容は物理的状態その物ではないという意味で物理的存在ではありません。しかし、物理的存在である脳の作用とその物理的状態に対応して活動しているとともに、精神の動きが脳の物理的状態に影響を及ぼしています。そして、意志形成においては、精神が物理的存在として神経系統に働きかけるような物理的状態を形成するメカニズムを備えており、その意味では物理的存在なのです。脳は物理的存在で、精神は非物理的存在という単純な分け方では、心身問題が解決し得ないことは、最初から分かり切ったことです。
いわゆる「心の哲学」の物理主義と言われる学説を見ると、いずれも弁証法的な把握方法が欠如しているように思われます。
◆精神の内容の非物理的存在性と 精神が物理的世界と相互作用する物理的存在性
すでに言ったように、精神は観念としての内容を持ち、脳の状態そのものではありませんし、精神が脳の状態に還元されるものでもありません。したがって、精神の内容は物理的に存在するものとは言えません。しかし、精神は物理的世界と相互作用し得ない非物理的存在なのかというと、そうではありません。精神は脳という物理的存在の働きによって現象しているものですから、物理的世界と無関係の非物理的現象ではありませんし、精神と物理的存在である脳とが相互作用し得ないと考えること自体、むしろ不自然と考えるべきです。精神の内容は、その内容に対応する物理的状態の基盤の上で現象しているのです。ですから精神の活動と並行して脳内の物理的状態も刻々と変化します。そして、意志形成においては、精神が物理的存在として神経系統に働きかけるような物理的状態を形成するのです。
◆意志の形成過程と、神経系統に働きかける物理的状態の変化
精神の活動と並行して脳内の物理的状態も刻々と変化するとともに、精神において意志が形成されるときは、精神によってもたらされるその脳内の物理的状態の変化は、最終的に身体の運動神経に働きかける物理的状態として脳内に作り出されます。すなわち、意志の形成は、単なる脳内の物理的状態の変化に付随する幻想ではなく、身体の運動神経に働きかけるような物理的状態を形成する現実的な精神の能動的な働きです。
このように、精神は観念としての内容を持ち、脳の物理的状態そのものではないが、脳の物理的状態の基盤の上で精神は活動し、精神が意志として形成されるときは、その精神の働きが身体の運動神経に働きかける方向に、脳の物理的状態が変化するようになっているのです。この精神における意志形成過程は、物理的状態に対応して、非物理的精神が単に付随(Supervene)しているのではなく、意志形成過程は、精神的内容に留まらず、運動神経に働きかける物理的過程として進行するものです。意志形成過程が運動神経に働きかけるメカニズムはまだ解明されていませんが、精神的な内容が、量子力学的な不確定性をコントロールと結びつくように働いているものと思われます。
このように、精神は脳の物理的状態の基盤の上で現象しているものですから、我々の思考と意思決定という活動という精神の変化によって、随時脳の状態も変化していきます。ですから、意志が形成されたりする過程において、脳の物理的状態が変化し、そのような変化が、物理的世界に作用し得ないと考えることは、むしろ不自然でしょう。精神はその内容を含め、脳の状態と絶えず相互作用しあう関係にあると考えるべきです。