私はカントの認識論において、次の6つの点で誤っていると考える。このことはカントの認識論の全面的否定と言えるかもしれない。これらは全てつながっており、最初の誤りが、ボタンの掛け違いとなって、必然的に以後の誤りになっている。
1.経験のみからは、普遍的必然的な認識は得られないとしたこと。
2.普遍的必然的な認識は先験的総合判断によらなければならないとしたこと。
3.時間と空間は先験的な直観形式であるとしたこと。
4.客観的世界の対象に主観的直観形式を当てはめて普遍的必然的認識ができるとしたこと。
5. カテゴリが、意識の統一(先験的な統覚)により、普遍的必然的認識となるとしたこと。
6.自己の主観的観念論をコペルニクス的転回に例えたこと。
それぞれについて、以下に説明する。
1.経験のみからは、普遍的必然的な認識は得られないとしたことの誤り
これはヒュームの誤りをそのまま受け継いでいる。デヴィッド・ヒュームによると、人間にとって存在するのは感覚的経験の流れであって、それが何によって起こっているかを知ることはできない。自我も感覚的経験である印象の束でしかない。知識の起源は、感覚的経験のみである。感覚的経験には印象と狭義の観念があり、印象とは、いま心にある状態(感覚、欲求、感情などの直接知覚)で、観念(狭義)とは記憶や想像で思い浮かべた印象の模写である。実体などは、直接知覚することができない想像の産物である。そして、物は感覚の組合せであり、例えば、リンゴは、その形、色、味、触感などの感覚の組合せである。自我もその時その時の感覚の束である。また、経験的事実に関する論理的推論は不可能であり、因果の認識は、時間-空間的に隣接する関係の反復経験からの本能的連想に過ぎない。頭の中で想像されたものは、過去の経験の組合せであり、ペガサスは、馬と鳥の翼との組合せである。神も同様に概念が組み合わされたものである。そして、経験からは普遍的に妥当な真理に至ることはない。しかし、経験論的懐疑論や主観的観念論は、しょせんそれを徹底すれば独我論にならざるを得ない。独我論を他人に主張することは、「あなたは私が知覚しているからこそ存在しているのだ」と主張することになり、他人にとってはたわごとでしかない。
フランシス・ベーコンが説いたように、自然に対する先入観のない実験や観測と帰納法により、普遍的必然的な認識を得ることはできるのである。実際の科学研究者で、帰納法により普遍的必然的な認識を得ることはできないと考えている人は殆どいないだろう。現実の科学研究では、研究分野にもよるだろうが、少数の実験や観測でも、その傾向を知ることができ、そこから仮説を立てることができる場合も多い。仮説を立てることにより、その仮説に基づいて異なった条件での予想を立て、予想通りの結果が得られれば、その仮説の正しい可能性は格段に向上する。そして、現実に実用化された技術は、すでにその正しさは証明されたものと考えてよいであろう。つまり、その法則性を疑う意味がないのである。
このように、限られた実験や観測からでも、普遍的必然的な認識に近づくことができるのは、自然界の存在が、普遍的法則性を備えた在り方をしており、その法則性により成り立っているからである。客観的世界とはそのような法則性があってこそ成り立っているのであり、法則性なしには、世界は現実に存在することができないであろう。
ヒュームの全面的な懐疑に対して、カントは経験的なものでも、先験的総合判断によれば普遍的必然的な認識は可能であると主張したのであるが、先験的判断にこだわったために、数学を先験的総合判断とせざるを得なかった。そして、時間と空間を客観的世界から切り離して、主観的な先験的直観形式とすることにより、自然科学において、数学的な先験的総合判断が可能となると考えたのである。しかし、自然科学において、数多くの法則が発見され、それらの理論が統合されていることを見ても、経験の対象を与える客観的世界が法則性を備えて成り立っているは、否定できない現実である。このことを認めれば、カントの認識論のように難解で怪しげな理屈は不要である。
2.普遍的必然的な認識は先験的総合判断によらなければならないとしたことの誤り
例えば、古典力学が普遍的必然的な認識として成り立つのは、我々の住む世界が、時間と空間という形式を備え、数学的なモデルで近似することができるようなあり方で、物体が現実に運動しているからである。客観的世界において事物は、法則性を備えた在り方をしており、その法則性により成り立っている。世界はそのような法則性があってこそ成り立っているのであり、法則性なしには、世界は現実に存在することができないのである。
たしかに、数学の前提は人為的に定めたものある。様々な現実界の現象に対して、人間が在り合わせの数学を適当にあてはめるだけでうまく行くわけではない。自然科学に対して、そもそも人間の頭の中で創られたような数学がなぜ有効なのだろうか。私は、この問いに対する答えは、認識形式が関わっていると思う。この点においては、カントの指摘は正しいが、時間と空間という形式が主観的な直観形式であるとしたことは誤りと言わざるを得ない。時間と空間はむしろ客観的世界の存在形式であると言うべきである。
人間は世界のすべてを、あるがままに把握し理解することはできない。人間が何かを認識するときは、必ず、世界の一部を、ある側面からその対象を切り取ってきて認識するのである。「分かる」という言葉が「分ける」ことから来るように、理解することと「分ける」こととは、密接な関係を持っている。ニュートンは、地上の物体の運動と、天体の運動とが、同様に計算できることを示した。ここで、ニュートンは古典的な三次元の空間と古典的な時間の枠組みの中における物体の運動という、一面だけを取り扱うモデルを考えました。これは、現実の世界の全ての物体のあらゆる運動ではなく、数学的に計算可能な抽象的な世界での抽象的な物体の運動という、計算可能なモデルを考え、そのモデルに適合する微分や積分を含む数学を見つけ出したのである。すなわち、古典力学では、現実の世界のある物体の運動を、数学的に計算可能な抽象的な世界での抽象的な物体の運動という、計算可能なモデルに置き換えて、近似しているのであり、それは、現実の空間に、抽象的な三次元座標を重ねて、どれだけ現実の運動を再現できるかを試していると言うことができる。
虚数についてはどうだろうか。虚数は波動を関数として表すために使われている。虚数によって波動が表現できるのは、横軸に実数をとり、縦軸に虚数iをとる2次元座標とすることにより、直線の回転運動を、縦軸方向(sin)と横軸方向(cos)の三角関数になるからである。その関数は、波を三角関数で表すことができるとともに、微分や積分に便利な関数になっている。
仮想的な虚数という概念が使用されているのは、たまたま横軸に実数をとり、縦軸に虚数iをとる2次元座標とすることにより、抽象的な直線の回転運動を三角関数に対応させることができ、波動の計算に便利な道具になっているに過ぎない。虚数の概念が神秘的な力を持っているわけではない。現実の現象のモデルを表現できるから使われているだけであり、現実の現象を反映するために使えるから、科学において意味をもつことができるのである。
科学的な認識において、数学理論の適用はどのように行われているだろうか。ニュートンがその古典力学を打ち立てたとき、その研究対象は「物体の運動」であった。世界にあるすべてのものをあるがままに理解したわけではない。そこでの数学の適用対象は抽象的力学的物体であり、ここにあるボール、あなたが持っているボールなど現実のボールではない。すべてのものが、力学的物体として抽象化されたモデルである物体が対象である。またそこでの空間は、質量により歪む現実の時空空間ではなく、古典的な三次元空間と均質な時間である。これらは、現実にある様々な物の一面を反映したものではあるが、人間の頭の中で作り上げられた抽象的なものでしかない。
つまり、古典力学の世界は、頭の中で創られた架空の「物体」モデルに関して、架空の古典力学的時空空間モデルにおける運動を想定して数学を適用しているのである。この抽象的モデルに対して、頭の中で創られた数学がぴったりと当てはまっても少しも不思議ではない。そして、既成の数学理論でうまく説明できない場合は、さらに異なるモデルを想定して、その研究対象にふさわしい新たな数学理論を作り上げてきたのである。その意味では、やはり、私たちの認識(理論)が対象に従わなければならない。カントが「対象が私たちの認識に従う」と言ったのは、やはり適切ではない。ニュートン力学に使われる微分や積分もそのような需要に応えるように作られたものである。相対性理論や量子力学などに関しても、古典力学のモデルよりも、さらに複雑な時空空間が想定されているが、頭の中で創られた抽象的モデルに対して、数学を当てはめて近似しているという点では同じである。
3.時間と空間は先験的な直観形式であるとしたことの誤り
カントにとって、なぜ時間と空間が先験的な直観形式でなければならないのか。それは、ニュートン力学が、経験の学であるにも関わらず、普遍的必然性を備えていることを、認めざるを得なかったからである。そして、カントにとって、経験から普遍的必然的な認識は得られないならば、我々の認識能力の内に先験的な要素があるはずである。そして、ニュートン力学に関するならば、数学が適用されている変数としての要素が先験的でなければならないのである。そこで、ニュートン力学で数学が適用されている変数としての時間と空間を先験的な直観形式としたのであろう。
古典力学が普遍的必然的な認識として成り立つのは、我々の住む世界が、時間と空間という形式を備え、数学的なモデルで近似することができるようなあり方で、物体が現実に運動しているからである。客観的世界の事物は、法則性を備えた在り方をしており、その法則性により成り立っている。世界はそのような法則性があってこそ成り立っているのであり、法則性なしには、世界は現実に存在することができないのである。
客観的世界が時間と空間という形式を備えているから、私達の主観が客観的世界を考える際に必然的に、時間と空間という形式のもとで、思い浮かべるのである。
4.客観的世界の対象に主観的直観形式を当てはめて、客観的世界に関する普遍的必然的な認識できると考えたことの誤り
カントは、我々の認識は感性によって対象の直観が与えられ、それを悟性が思考することによって成立するとしたが、もし時間と空間は感性に備わった先験的な直観形式であるならば、そのような主観的な感性の直観形式を、客観的世界の対象に与えたとして、時間と空間との間の先験的かつ普遍的必然的法則性は、対象の法則性の認識になり得るだろうか。もし時間と空間が感性に備わった先験的な直観形式であり、客観的世界の事物がもともと時間や空間を備えていないならば、そこに主観的感性が先験的な直観形式である時間と空間を一方的に当てはめることはできないはずである。するとそこでの時間と空間との間の普遍的必然的法則性は、もともと主観的な感性の法則性であり、客観的世界の対象の普遍的必然的法則性にはならないはずである。客観的世界において時間と空間との間の普遍的必然的法則性が成立するのは、客観的世界の事物に普遍的必然的法則性がなければならないのである。
5. カテゴリを意識の統一(先験的統覚)により、普遍的必然的認識となると考えた誤り
カントは、時間と客観を先験的な直観形式としたが、もし時間と空間が、客観的世界に備わった形式ではなく、感性に備わった先験的な直観形式であるならば、そのような主観的な感性の直観形式を、客観的世界の対象に与えたとして、時間と空間との間の先験的かつ普遍的必然的法則性は、対象の法則性の認識になり得ない。時間と空間が感性に備わった先験的な直観形式であるならば、客観的世界の対象はもともと時間や空間を備えていなければ、そこに感性が先験的な直観形式である時間と空間を一方的に当てはめることはできない。時間と空間がもともと主観的な感性の直観形式であるならば、客観的世界の対象が時間や空間を備えていなければ、客観的世界の対象の普遍的必然的法則性にはなれないのである。
カテゴリに関しては、さらに困難である。対象は直観の形式を通して与えられるが、カテゴリは、直観においては与えられておらず、まったく主観的な悟性における判断機能である。直観において対象に与えられることのなかったカテゴリが、客観的世界の対象の普遍的必然的法則性とどのようにして関係することができるのであろうか。カントは、認識において、私達には意識の統一が、意識の根底にあり、この働きによって、悟性の判断機能であるカテゴリが対象に対しても妥当なものとなるとしている。悟性の判断機能としてカテゴリがあったとしても、対象として与えられることのないカテゴリは、客観的世界の対象の普遍的必然的法則性とは無関係である。
我々は悟性において、カテゴリに基づいて認識しているというカントの主張は、科学的認識に関しても、一面では正しいが、このことは、カテゴリが先験的統覚により普遍的必然的認識となるのではない。むしろ、悟性のカテゴリは、客観的世界における事物のあり方を認識する中で形成されてきたものであり、その普遍的必然的法則性は、もともと客観的世界に由来するものであり、それを抽象したものである。
そのカテゴリの妥当性の究極的な尺度は、現実世界の説明にどれだけ適合しているかにあるのであり、「対象が私たちの認識に従う」とは言えない。現実の理論として機能するかどうかは、その抽象的なモデルが妥当かどうかは、現実の世界をどこまで反映しているかによる。そもそも「認識する」とは客観的世界にある対象を対象に沿って認識するのでなければ、「認識する」ことにならないのである。
6.自己の主観的観念論をコペルニクス的転回に例えたことの誤り
フランシス・ベーコンは、ドグマからの演繹に基づくスコラ学から、科学を解き放とうとしたのであり、彼らの実験と観測を重視して、帰納法による普遍的必然的認識に基づく経験的科学を打ち建てようとしたのであり、彼らの認識への貢献こそコペルニクス的転回に例えられるべものであろう。
一方、カントは、ヒュームの主観的観念論の誤りを受け継ぎ、帰納法による科学を否定し、演繹法的先験的判断こそ、普遍的必然的な認識に至る唯一の手段であるとしたのである。
また、天動説によると、次々と発見される新たな観測事実を整合的に説明するには、非常に複雑な方程式が必要になる一方、地動説で説明する場合には、比較的に簡潔なものとなる(コペルニクスは楕円軌道ではなく、円軌道にこだわっていたために不正確なものではあったが)。
客観的世界の実在と法則性を前提にすれば、認識論は非常に簡潔に説明することができるのに対し、カントの認識論は、経験に基づく帰納法により普遍的必然的な認識が得られることを理解しないことによるボタンの掛け違えから、本来経験的なものに対して、片っ端から先験的なものを適用することにより、非常に複雑な理論とならざるを得ないことを考えても、カントの理論は、反科学的であり、反コペルニクス的転回と評価すべきように思える。