ヒュームの哲学は、我々の認識の全ては経験に由来する。経験的認識はある事象がいかにあるかということは教えるだけで、その事象の推移が必然的であることの根拠を与えてはくれない。また因果の認識は、時間-空間的に隣接する関係の反復経験からの本能的連想に過ぎず、自然科学も確実な認識とは言えないとする。
 イギリスの経験論は、13世紀のロジャー・ベーコン(1214-1294)に始まり、16~17世紀のフランシス・ベーコン(1561-1626)、そしてジョン・ロック(1632-1704)が現れた。ジョージ・バークリ(1685-1753)の主観的観念論やデヴィッド・ヒュームの不可知論へと移行している。この流れは、イギリスの経験論と呼ばれるが、ロックを境にして大きく変化している。
13世紀のロジャー・ベーコンは、スコラ哲学のドグマ主義(教条主義)を批判し、自然の観察や実験に基づく研究の重要性を説き、学問は自然に対する人間の支配力を大きくするものと考えていた。その約300年後に現れたフランシス・ベーコンは、ロジャー・ベーコンと同様にスコラ学を批判している。さらに従来の先入観(イドラ)に囚われることのない自然科学の重要性を説いた。また、任意の経験から一面的な結論を引き出す経験主義をも批判し、実験に基づいて法則性を導き出す経験的科学を提唱した。自然のふるまい(因果性でいう「結果」)を観察・思索し、そこから推測できた知識(因果性でいう「原因」)を、精神の道具として実利に用いる(人間が意図する「結果」を生み出す)ことを主張している。フランシス・ベーコンは、スコラ哲学で主に用いられた演繹法ではなく、自然に対する先入観のない観測を重視した帰納法を提言したのである。彼は「知識は力なり」との格言で知られるが、自然を支配するには、自然界の因果関係を知ることにより、自分達の望む結果を産み出せるようになると説いた。これら二人のベーコンのいずれも、実験や観測の経験により普遍的必然的な認識が得られることを確信している。

 経験による普遍的必然的な認識への懐疑的な主張をしたのはジョン・ロックである。彼によると、人間の心はもともと白紙(タブラ・ラサ)であり、全ての観念と認識は経験から来る。理性が先天的に備わっているとする合理論を批判して、子供や野蛮人は正しく考えることができないし、潜在的に備えていると言うなら、全ての知識は生得観念のなってしまうと主張した。そして、全ての知識や理性は経験の積重ねで得たものであり、経験には外界の事物を捉える感覚(外的経験:第一性質)だけでなく、思考や推理など(内的経験:第二性質)も含まれるとした。個々の感覚は単純観念であり、単純観念から複合観念が形成されるとした。数学と論理命題は確実であるとしたが、経験から得た普遍的とされる認識は蓋然的なものに過ぎないとした。

ロックの経験による普遍的必然的な認識への懐疑から主観的観念論を展開させたのが、ジョージ・バークリである。彼は、全ての観念は知覚から生まれたとし、「存在することは知覚されていることである」と主張した。これは知覚を離れて、外の世界は存在しないということで、この考えを徹底すると独我論になってしまう。バークリは、さすがに「私の知覚を離れて、私以外の人は存在しない」と、人々に説くことはできず、聖職者である彼はこれを避けるために神を持ち出した。すなわち、自然界の因果法則と思われるものは、神が私たち全ての者に知覚として与えられた神の賜物であり、科学は神の意志に矛盾しないものだと説いた。つまり、私たちの外の世界は神が与えた幻だということである。姑息な屁理屈であることは、明らかであろう。全知全能の神が、天地を創造しないで、私たちに世界の幻だけを見せて済まそうとしていると主張しているのだから。

一方、ロックの経験による普遍的必然的な認識への懐疑から不可知論を展開させたのがデヴィッド・ヒュームである。彼によると、人間にとって存在するのは感覚的経験の流れであって、それが何によって起こっているかを知ることはできない。自我も感覚的経験である印象の束でしかない。知識の起源は、感覚的経験のみである。感覚的経験には印象と観念(狭義)とがあり、印象とは、いま心にある状態(感覚、欲求、感情などの直接知覚)で、観念(狭義)とは記憶や想像で思い浮かべた印象の模写である。実体は、直接知覚することができない想像の産物である。
物は感覚の組合せであり、例えば、リンゴは、その形、色、味、触感などの感覚の組合せである。自我もその時その時の感覚の束である。また、事実に関する論理的推論は不可能であり、因果の認識は、時間-空間的に隣接する関係の反復経験からの本能的連想に過ぎない。頭の中で想像されたものは、過去の経験の組合せであり、例えばペガサスは、馬と鳥の翼との組合せである。神も同様である。そして、経験からは普遍的に妥当な真理に至ることはない。

 私は、学問としての哲学の歴史において、イギリス経験論の本流は、ロックやヒュームではなく、ロジャー・ベーコンとフランシス・ベーコンではないかと思う。
経験論的懐疑論や不可知論は、しょせんそれを徹底すれば独我論にならざるを得ず、それを他人に主張することは、「あなたは、私が知覚している限りにおいて存在しているのだ(要するに、「あなたは、私が知覚していないときは存在しているとは言えない」)」と主張することになり、他人にとってはたわごとになってしまう。

 自然に対する先入観のない実験や観測と帰納法により、普遍的必然的な認識を得ることは不可能なのであろうか。しかし、実際に科学の研究者において、そのように考えている人は殆どいないだろう。現実問題として、実際の科学研究者は、1つの関係式を導き出すために、無数の実験を行っているかというと、研究分野にもよるだろうが、かなり少数の実験や観測でも、その傾向を知ることができ、仮説を立てていることが多い。仮説を立てることにより、異なった条件での予想を立て、予想通りの結果が得られれば、その仮説の正しい可能性は格段に向上する。
 このように、限られた実験や観測からでも、普遍的必然的な認識に近づくことができるのは、自然界の存在そのものが、その法則性を備えて成り立っているからである。世界とはそのような秩序なしには、現実に存在することはできない。

 経験からはいつまでたっても普遍的に妥当な真理に至ることはできないなどと言う人々は、現実の科学の研究を知らないのではないだろうか。