カントは、我々が事物を認識するには、感性と悟性が必要であり、感性によって時間的空間的な直観的表象を得て、この直観的表象に対して、概念を用いて思考して認識するとしている。

ここで、時間と空間は、私の感性に備わった主観的なものなのか、認識対象である事物の存在する世界に備わったものなのかという疑問が生まれます。

 

 カントは、時間や空間を抜きにして外の世界の現象を考えることができず、経験する対象を考えるためには、時間や空間が必要であること自体、時間と空間が感性の直観形式(すなわち主観的なもの)である根拠としていますが、私は、時間や空間を抜きにして外の世界の現象を考えることができず、経験する対象を考えるためには、時間や空間が必要であること自体、時間と空間が客観側に属する証拠ではないかと思います。

 私の意識から独立した他人(例えばAさん)を考えてみましょう。私の主観に現れるAさんという存在は、その他の事物と同じく、私にとっての客観側に属しています。私が客観側にいる「Aさんと会いたいな」と思ったときに、時間と空間を特定して待ち合わせをすることによって、その目的が達成することができます。それは、「時間と空間が客観側に属する」からではないのでしょうか。時間と空間を利用することにより、客観側にいるAさんを呼び出すことができるのです。

「時間と空間が主観側に属する」とするならば、Aさんと会うという目的の実現をどのように説明することができるでしょうか。ここでは、時間と空間は直観的表象を得るための主観的形式ではなく、Aさんと会うという目的を実現する手段となっています。他人との待ち合わせに限らず、科学においても時間と空間を用いて対象に働きかけ、例えば、小惑星の物質の鉱物資料を地球上に持ってくるなど、様々な目的を実現しています。もし、時間と空間が主観側に属するならば、どのようにして、自分の意識の外の事物に働きかけることができるでしょうか。


また、時間と空間が客観側に属することを疑うのであれば、自分の外に存在する事物の存在、更に自分とは独立した他人の意識の存在についても同様に疑う必要があるのではないでしょうか。自分の外に存在する事物が物自体であるならば、Aさんの意識も同様に、私の認識の及ばない物自体の世界の存在ではないのでしょうか。私と他人の間の電子メールによるコミュニケーションは、文字の羅列を通じて行われているのですが、それも幻かもしれませんし、私へのメールを書いた他人が存在するということも疑うことも可能です。デカルトは、自分の意識の存在は明らかにしましたが、同じくらいの確かさで、他人の意識の存在を証明していません。この記事を読んでいるあなたにとって、私が現実に存在することを確信できる証明は可能でしょうか。そもそもそのような証明は必要でしょうか。


 私は、素朴実在論的に確信している世界で現実に生きていて、それで充分です。「外の世界の人々の存在しない可能性」は、そのようなことも考えることもできるが、そのような懐疑を徹底すれば、自分の意識の存在以外は何も証明できないことさえ分かれば、それ以上考える必要はないと思っています。外の世界を疑うことは可能であっても、外の世界が存在しないことの証明もできないのです。

結局、外の世界が「存在する」か、「存在しない」かの選択ですが、私にとって外の世界を信じる根拠は、生まれて以来の全ての体験で充分である一方、外の世界が存在しないことを示す根拠は、(デカルト的懐疑における可能性以外に)何もないことです。

全てを疑うことを徹底する立場からすれば、外の世界を信じることは独断だと主張する人もいます。しかし、全てを疑うことを徹底するならば、他人が存在すると信じることも同様に独断です。

私が、もし外の世界と他人(例えばAさん)の意識の存在しない可能性などというものに固執していても、私の意識における、Aさんの存在しない可能性などというものは、Aさんの自己意識の存在を疑いようのないAさんにとってはたわごとにしかすぎません。私が他人に語りかけたり、私の外の世界の事物に働きかけるためには、他人も外の世界も存在することを受容れるしかないのではないでしょうか。

他人の存在しない可能性などというものは、一人ぼっちで考えるべき、たわごとである以上、他人も外の世界も存在することを受容れることが、唯一自分の人生を意義のあるものにする立場ではないでしょうか。