カントの認識論が、広く受け入れられているのは、認識のあり方の本質を一定程度反映しているからである。例えば、我々がリンゴを知覚しているときは、背景と一体になったままのリンゴを見るのではなく、自らの知識や経験、枠組みといったものを駆使して、リンゴを積極的に、背景から分離して、リンゴとして把握している。自分の知識や経験から構成された枠組みの中で感覚から得られる世界を眺め、リンゴという概念を構成し、その世界に当てはめて認識している。部屋の中を眺めるにしても、雑然としたありのままの視覚像を眺めるのではなく、自分の知っている物の集まりとして自ら構成したものを眺めている。
カントの認識論の問題点は、認識の際にはたらく主観的な形式が、経験と無関係なものとしていることである。しかし、主観が時間と空間という形式を持っているのは、経験と無関係にそのような形式が備わっているのではなく、むしろ外界が、時間と空間で認識し得るような構造で存在することの反映である。時間と空間という形式が明確なものとして形成されるのは、我々の経験に基づいている。もし主観的な形式が、経験と無関係なものであるならば、幼い子供にも明確な時間や空間の概念が確立していてもよいはずだが、幼い子供はそのような明確に確立された時間や空間の概念を持っていない。リンゴの認識にしても、我々がリンゴと関わってきた経験から、「リンゴ」という概念が形成されてきたのである。したがって、主観的な形式も悟性概念も、経験と無関係なものではなく、むしろ経験により形成されたものであることを正しく理解することが必要である。カントの認識論への貢献を正しく評価するためにも、このような観点で見直す必要がある。
カントは、ヒュームの懐疑論に大きく影響されている。ヒュームによれば、人間にとって存在するのは感覚的経験の流れであって、それが何によって起こっているかを知ることはできない。自分の感覚されるもの以外は知ることができないという考えに徹すると、他人の心なども感覚することはできないので、他人の存在にさえ懐疑的になり独我論にならざるを得ない。カントはこれを克服しようとしたのだが、感覚的経験から確実な認識はできないという前提を引きずっているように思われる。しかし、人間の認識が感覚的経験に基づくものであるからといって、確実な認識が成り立たないということにはならない。現に人間は外界と関わる経験から帰納的に多くの法則性を導き出し、それらの認識の正しさを自らの活動を通じで検証してきた。これは、自然界が法則性のある構造をもったものとして存在しているからである。さらに人間は自らの力により、外界を認識しその知識に基づいて外界を変革している。認識からその知識に基づいて外界を変革することができるのであれば、カントの言う認識不能な「物自体の真のあり方」などは意味を失ってしまう。