ウィキペディアの「想像可能性論法」の説明は次のようなものである。
ゾンビ論法(zombie argument)または想像可能性論法(Conceivability Argument)とは物理主義を批判する以下の形式の論証を指す。
1. 我々の世界には意識体験がある。
(a) 意識、クオリア、経験、感覚など様々な名前で呼ばれるものが、「ある」という主張である。ここは基本的に素朴な主張である。
2. 物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
(a) 現在の物理学では、意識、クオリア、経験、感覚を全く欠いた世界が想像可能であることを主張する。この哲学的ゾンビだけがいる世界を、ゾンビワールドと言う。
3. したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。
(a) ゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には、意識、クオリア、経験、感覚が備わっているという事実がある。それは、現在の物理法則には含まれていない。
4. ゆえに唯物論は偽である。
(a) 以上の点から現在の物理法則・物理量ですべての説明ができるという考えは間違っている。
ウィキペディアの説明が正しいものかどうかわからないが、上記のような議論は、私には支離滅裂であるように思える。
上記1及び1(a)については、敢えて異を唱える必要もないであろう。
上記2及び2(a)の「意識、クオリア、経験、感覚を全く欠いた世界が想像可能である」ことも一応は受容れることができる。しかし、想像可能であることに、何らの論理的意味ははない。どのように荒唐無稽なことも想像可能なのであるから。
また、ここで言う「論理的に可能」は意味不明である。もし、意識、クオリア、感覚などの発生メカニズムが分かり、物的に同じで、意識、クオリア、感覚を全く欠いた世界が現実にあり得ないことが判明した場合にも「論理的に可能」であり得るのだろうか。そのとき「論理的に可能」とは、いかなる意味を持ち得るのであろうか。現実にあり得ない場合には「論理的に可能」であり得ないのであれば、ここでの仮定自体が成り立たない。すなわち、空しい荒唐無稽な想像でしかないのだから。
したがって、上記2が意味を持つためには、物理的に我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識が成立しない世界が存在することが、証明される必要がある。
これに対して、「我々の住む世界では、現実にあり得ないかも知れないが、別の世界ではあるかも知れない」という人がいるかもしれない。しかし、そのような世界があることをどのように証明することができるだろう。その人は更に「その世界は、我々の世界とは接点がないから、知ることはできない」と言うであろう。そのような世界を想定(想像)することにどのような意味があるであろうか。哲学は想像ごっこではない。その人はさらに「接点がなく、決して知ることはできないからといって、そのような世界が存在しないことにはならない」と言い張るかも知れない。それに対しては、「あなたは決して知ることができないし、あなたには何の影響も及ぼさないし、それを検知する接点はないけれど、あなたに蛇の霊がとりついていることが、想像可能である。そのような霊がとりついていないということを、どのように証明するのか」と尋ねてみたい。「接点がなく、決して知ることはできない」ということは、「存在しない」ということにしないと、想像ごっこは果てしなく続くであろう。それは哲学ではない。少し話は違うが、量子力学の多世界理論についても、同様に感じている。物理学における数学は現実世界に当てはめることに意味がある。検証の不可能な理論は想像ごっこでしかない。
上記の3については、意識、クオリア、感覚などの発生メカニズムが分かり、現実にあり得ない場合に、「論理的に可能」とは、いかなる意味を持ち得るのか、明らかにしないと意味不明である。
我々は、物理的世界に属する肉体を持たない精神や意識が存在することを示す何らかの経験をしたことがない。もし物理的世界に属する肉体を持たない精神や意識が存在し得ないならば、「意識に関する事実は、物理的事実とは別の、われわれの世界に関する更なる事実」であると言えるだろうか。
上記4の真偽は考える気にもなれないし、ここでいう唯物論とはどのような唯物論なのか。心の哲学でいう「物理的世界の因果的閉包性」に囚われた「物理主義」のことであれば、「物理主義」は誤っているということは私も同意するが、上記の論証は、まったく論理的ではない。
私は間違っているのだろうか。