マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないか」(清水一浩訳、講談社選書メチエ)を読んでみた。これまでのところでは、あまり得るものがなかった。
ガブリエルにとっての「存在」とは
ガブリエルはまず「何かが存在すると言えるのは、その何かが世界の中に現れるときだけである」(23頁)と言う。(後には「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」(108頁)と言い換えられる。
ガブリエルは「警察官の制服を着用して月の裏面に棲んでいる一角獣でさえ存在する」と主張する。これは任意に想像したものでも「存在」すると「存在」を定義していることを表すが、単なる「観念としての存在」言っているのか、それとも「現実における存在」を言っているのか明らかでない(敢えて混同しているように思われる)。
ガブリエルは「妖精、魔女、ルクセンブルクに隠された大量殺戮兵器も世界の中に--例えばメルヒェン、妄想、精神病の中に現れている」と言う。またガブリエルは「妖精はメルヒェンの中に存在している」とも主張する。そして「存在するものは、全て--私たちの想像の中にしか存在しないのだとしても--どこかに存在する」と言っている。
ガブリエルの「存在」の定義は混乱していないか?
ガブリエルは「現実における存在」と「観念としての存在」の区別をしていない。現実に存在しないものでも想像することは可能であり、想像された観念でも、想像した人の意識の中に存在すると言えるであろう。しかし、観念として存在しても、観念の対象が現実に存在することにはならない。したがって、「現実における存在」と「観念としての存在」との区別は重要である。
ガブリエルは「存在しないものもすべて存在する」と言うが、ここでは最初の「存在」と後の「存在」とは異なる意味で使われている。最初の「存在」は「現実の存在」の意味で使われ、後の「存在」は「観念としての存在」の意味で使われている。
我々が「存在」を問題するのは「現実における存在」であり、ガブリエルの言う「現実における存在」と「観念としての存在」を包含(混同)した「存在」ではない。
確かに「警察官の制服を着用して月の裏面に棲んでいる一角獣」のように荒唐無稽に想像した観念でも、私がそれを想像する限りにおいて、観念として私の意識の中に現実に存在していることは、唯物論者でも当然認めるであろう。しかし、観念の対象である「警察官の制服を着用して月の裏面に棲んでいる一角獣」が現実に存在するかというと、そのような一角獣は存在しないと言わざるを得ない。
ガブリエルの「新しい実在論」が、「現実における存在」と「観念としての存在」とを混同したものであれば、あまり積極的な意義は見出せない。
ガブリエルの「世界は存在しない」は「世界」の定義に問題あり
ガブリエルは「存在すること=何らかの意味の場に現象すること」(108頁)としている。
ガブリエルは「世界とは、全ての意味の場の意味の場、それ以外の一切の意味の場がその中に現象してくる意味の場である」として、「世界」を定義している。
ガブリエルは更に続ける。「すると存在する一切のものは世界の中に存在していることになります。・・・だとすると、こう問わなければなりません。世界が存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するのだろうか、と。世界は意味の場S1に現象すると仮定してみましょう。ここでS1は、様々な意味の場のひとつです。つまりS1と並んで、S2・S3……と複数の意味の場が存在しています。ほかの意味の場と並んで存在しているS1に現象しているのであれば、世界は存在している。このようなことは可能でしょうか。」(109頁)
要するに、「世界とは、全ての意味の場の意味の場」であり、その外には意味の場はないはずなのに、世界が、世界に含まれている数多くの意味の場の内の1つに過ぎない意味の場S1の中に現象するのはおかしい、「世界は、世界の中には現れてはこない」はずである、つまり世界は存在しないのだということのようである。
しかし、このような矛盾が生ずるのは、そもそも「現実における存在」と「観念としての存在」とを混同して、メルヒェンでも妄想でもそれぞれ意味の場として包含する「全ての意味の場の意味の場、それ以外の一切の意味の場がその中に現象してくる意味の場」として世界を定義したからである。そのような、世界の定義の仕方により矛盾が生ずるから「世界は存在しない」という結論を導き出すことはできない。世界が意味の場で現れるときは、世界そのものではなく、世界という概念(観念)である。そこには何の矛盾もないのではないか。
どのように考えるべきか
「現実における存在」と「観念としての存在」を区別して、例えば、世界を「現実の存在の場」として考えればそのような矛盾は生じない。宗教の世界であろうと、メルヒェンであろうと、妄想であろうと、観念として世界に存在すると理解すれば分かりやすい。しかし、それぞれは観念として存在していても、神、妖精、魔女など観念の対象は世界には存在するとは言えないのである。このことは、観念であっても現実に影響を及ぼし得ることと矛盾しない。
世界は現実に存在するし、世界は自然科学でいう宇宙と同じものと考えてもよいのではないかと思う。物理的世界に限らず、全ての意味の場は、宇宙の中に存在している。メルヒェンであろうと妄想であろうと宇宙の外に現象しているわけではない。
事物はガブリエルの言うように「意味の場」に存在するのではない。「意味の場」は、人間の観念の場に過ぎない。事物は、意味の場などとは関係なしに、それ自体として存在してきたし、現在も存在している。人間が認識する際に、自然科学、社会科学、美術、文学などの「意味の場」において位置づけるのである。あらゆる意味の場は、人間の構築する観念の体系の中にある。
我々は宇宙についても考えることができるが、その時にはその意味の場に宇宙があるのではなく、そこにあるのは宇宙の概念(観念)であり、宇宙そのものではない。
宇宙をガブリエルのいう「世界」と言い換えたとしても、我々の思考に現れるのは、世界の観念であり、世界そのものではない。したがって、ガブリエルのいうような矛盾は生じない。宗教の世界であろうと、メルヒェンであろうと、妄想であろうと、観念として世界に存在するのと同様に、世界の観念は、世界の中に存在し得る。