物理的因果性と物理的還元
心の哲学においては、一応物理主義が主流のようである。
物理主義は、物理領域の因果的閉包性を基本的な原理としている。すなわち、心的な現象を含む全ての出来事は、物理法則に従う物理的原因をもち、その物理的原因は、出来事の起こる「充分条件」であると考えて、心的なものが物理的なものに作用することを否定する。また、一つの出来事に物理的原因と心的原因が独立して存在することは、「因果的過剰決定」であるとしている。
しかし、我々は日常的に、自分の意志で行動しているという、常識的な(素朴実在論的)実感を持っており、意志が心的なものであり、物理的な物質である肉体の運動の原因となり得ないと言われても、納得できる人はいないであろう。そこでこの点をうまく説明できないかと、心脳同一説、機能主義、非法則一元論、表象主義など多様な立場で説明が試みられている。
しかし、いずれの立場も成功していないように思われる。
その理由として、私は次のように考えている。
物理主義と言いながら、科学的ではない前提を立てている。いずれの立場においても、「物理的なもの」と「(非物理的な)心的なもの」として二分割していること、「物理領域の因果的閉包性」を前提としていることが、まず挙げられる。
「物理的なもの」と「(非物理的な)心的なもの」の分割は正しいのか。
物理的なものと心的なものを区別することは、議論を進める上で当然必要であろう。しかし心的なものを「非物理的なもの」とすることに問題はないだろうか。物理主義において、「心的なもの」が正しく位置づけられていないように思われる。
最初から心的なものを「非物理的なもの」とするから、心的なものが影響することができなくなるのではないだろうか。心的なものは、物理的なものである物質すなわち脳を含む肉体により生み出される現象ではないのか。脳を含む肉体により生み出されるものであれば、「非物理的なもの」として物理的閉包性により、排除することは、むしろ妥当性を欠くであろう。
機械の自律制御システムにおいては、内蔵プログラムに基づいて、コンピュータによる自律制御が行われる。肉体は生物的な自律制御システムを形成している。
生物的な自律制御システムにおいては、与えられたプログラムによるものではなく、クオリアを含む意識活動及び無意識活動により自律制御が行われている。意識活動の物理的メカニズムは明らかでないが、これを解明するのが脳神経科学であろう。心的なものである意志が、肉体の運動をどのように起こすのかは、まだ未解明であるが、現実に意志により肉体が動いているのであるから、いずれ解明されることは必然であろう。
生物的な自律制御システムの解明は事実問題であり、科学の問題である。哲学や論理で証明できるものではない。心的なものと物理的なものを正しく位置づけ、研究の方向性を明確に示すことが、心の哲学に求められているはずだが、現在の心の哲学と称するものは、「物理的世界の因果的閉包性」などという寝ぼけたことを言っており、焦点がずれていることが甚だしい。
物理的閉包性は真理なのか
「物理的世界の因果的閉包性」(物理的閉包性)とは、「物理現象の原因となるものは、物理現象だけである」とする原則である。
宗教では、しばしば神が介入して奇跡を起こすとされる。物理的閉包性は、神が、このような奇跡として物理的世界に介入することはないという原則として考えれば意義がある。普段は物事は物理法則に従って推移していても、もし奇跡があるならば、物理的領域の因果的閉包性が破れていることになる。現代科学においては、世界に神や霊魂の介入による現象はなく、物理的閉包性が成立しているとされ、その意味で、物理的閉包性は基本的前提となっている。
心の哲学において、因果的閉包性について様々な議論がなされている。この理由は、例えば「心的なものは物理的なものに対して影響を与えることができるのか」といった問題である。しかし、心的現象が、神の介入と同様に、物理的閉包性の原則の下で排除できるものかどうか疑問である。心的現象が物理的現象により生じているのであれば、それが反作用したり、作用したりすることはあり得ないはずはない。
そのような心的現象を、物理的閉包性の原則の下で排除するということはどういうことなのであろうか。物理主義は科学を重要視しているようでありながら、物理的閉包性の原則の機械的な適用は、科学的な態度には程遠いように思われる。
物理はすべてを包含する学問なのか
物理的閉包性が成立するためには、物理学が完全な学問である必要はないとしても、少なくとも世界のすべての現象を包含する学問である必要がある。しかし、これまでの物理学は、もともと心的現象を捨象してきた学問である。
ニュートン力学は、均質な三次元絶対空間と一方向に進む一次元絶対時間のモデル時空ですべての運動を近似するものであるし、その後、相対性理論によって、光速を一定とみなした四次元時空のモデル空間に変わったとしても、それは、数学的なモデル空間であることは変わっていない。量子力学にしても電子や素粒子を波動モデルとして数式化したものであり、波動モデルと粒子モデルを折衷しているようなものである。
そして抽象的な数学が適用できるのは、抽象的なモデル空間やモデル波動による近似であるからである。物理学は現実世界にあるすべてを組み込んだ完全な学問ではない。
心的なものに関して言えば、現実の世界において、物質が自己組織化により、生命や心的なものを生み出す潜在的な機能を備えていたからこそ、宇宙の進化の中で、心的なものが顕在化してきたのであるが、現在の物理学はそのような心的要素はすべて捨象した形で発展してきたものである。そのような要素がすべて捨象されてきたのは、有り合わせの物理学には、それらを考慮して学問として成り立たせる基盤がなかったからに他ならない。現代の物理学に至っても、そのような不完全さは変わっていない。このような不完全な物理学の下で、心的なものを排除した物理的因果の閉包性を論じても、「非物理的なもの」である心的なものの入る余地がなくなるのは当然である。それにもかかわらず、心的要素をすべて捨象した物理学のもとで、物理的因果の閉包性を前提として、意志が肉体に因果的に影響することを理論付けようとしても、意味をなさない。