前回に引き続き吉田伸夫氏のブログの「決定論と自由意志」
についてコメントしたい。



吉田氏は第II章の「自由意志の幻想」において、次のように論じている。

 前章で見たように,現在の科学的知見に基づけば,一般的な用語法での<決 定論>と見なされる《因果的決定論》――すなわち,ある時刻での状態が初期条件として与えられれば、それ以降の時間発展は一意的に定まるとする主張――の妥当性こそ疑わしいものの,未来(および過去)にどのような事態が生起するかは「事実として」決まっているという《事実的決定論》が成り立っている公算が大きい。この見解が正しいとすれば,「人間には(物理的保存則を破らない範囲で)意志の力によって未来を選び取る能力がある」という意味での<自由>は,原理的にあり得ないことになる。
 もっとも,「この」世界で厳密な因果法則が妥当していない場合は,<過去>によって<未来>が完全に規定されておらず,人間の精神的営為が因果的な物理法則によってがんじがらめに拘束されている訳ではないので,時間発展の過程に人間の意志が何らかの形で関与していると見なしても論理的な矛盾は生じない。だが,常識的に考えれば,<未来>が既に「事実として」定まっている以上,<過去>と<未来>の関係が完全に因果的でなくても,人間精神に自由な選択の能力を認めるべくもないことは明らかだろう。

 また,仮に一歩譲って,前提となる《事実的決定論》が誤っているとしても, こんにち認められている科学的知見の内部で<自由意志>の存在を否定する証拠は多い。物理的な観点から説明しよう。現在の測定技術の範囲内では,自由度が少ない系において既知の因果的な物理法則がきわめて良い精度で成り立っているので,精神活動が物理現象に関与して因果律を破ることを実証するためには,

(i)巨視的な多自由度系での定方向的な破れ
ii)少自由度系での統計的法則におけるランダムな破れ

のいずれかを提示しなければならない。具体的には,(i)の例として,五感によらない個体間のコミュニケーションや負のエントロピーの供給がない閉じた系での自己組織化など,(ii)の例として,脳内部で放射性崩壊の様式や酵素反応でのミハエリス定数が試験管における結果と相違するようなケースが想定さ れる。しかし,その正当性がきわめて疑わしい「透視」などの超心理学の実験や,レム睡眠時幻覚と解釈できる「金縛り」や「幽体離脱」のように実証されてはいないものの一応合理的な説明が提出されている過程を別にすれば,精神的な営為が物理法則をねじ曲げていることを示す信頼できる観測例は,これまでのところ報告されていない。したがって,精神的作用が脳のような生理的システムに直接に及旧け効力は(仮に存在するとしても)測定限界未満の微弱なものであり,これが物質的な相互作用を介して拡大され,最終的に巨視的な身体効果として顕在化すると考えられる。ところが,生物個体のような自由度の多い複雑なシステムにおいては,状態の時間変化は初期条件にきわめて敏感に依存するため,系に微小な作用を及ぼしたとき,これが最終的にどのような結果をもたらすかは,実際にその系で相互作用を完遂させてみなければ予想できないはずである。となると,精神は自分が何をしようとしているかについて盲目のまま身体に働きかけざるを得ず,結果を念頭に置きながら合目的的行為を指令しているとは見なされない。これでは,たとえ物理法則に反する現象をもたらすと言っても,もはや<自由意志>に促された行為とは認定できない。
 以上より,物理的な論証の妥当性を信じるならば,人間に(倫理的な)行動を選び取る<自由>があると思うのは,全くの幻想であると結論することができる。

 にもかかわらず,おそらく意識的な活動をしている全ての人は,自分が与えられた運命を機械的になぞっているのではなく,自らの手で未来を切り開いているという自覚を持っているだろう。この「自由意志の幻想」はあまりに根強くまた普遍的であるので,単に人間の愚かさや自己認識の不足に帰すべきではなく,何らかの生得的な心理機構に端を発すると考えられる。そこで,本章では,人はなぜ自分が自由だと信じるのか,その心理的根拠を探索していきたい。ここで使われる手法は,神経科学および認知心理学の知見に立脚して<自由感>の起原となる情報処理過程を解明するというもので,厳密な論証は期待できないが,個人の実体験と結びつけることによって充分に納得できる内容になっていると信じる。

 
 しかし、吉田氏は、「精神活動が物理現象に関与して因果律を破る」以外に自由意志はありえないという前提に立ち、「人間には(物理的保存則を破らない範囲で)意志の力によって未来を選び取る能力がある」という意味での<自由>は,原理的にあり得ない」としている。そこには、精神活動が物理現象と無関係に生まれて、因果律を破るためにのみ作用するものとされている。しかし、人間の精神が脳という高度に組織化された物質により営まれる生理現象であるならば、人間の精神活動自体、脳における物理現象と作用反作用の関係があっても当然である。したがって、精神活動が一方的に物理現象に関与して因果律を破ると考えるところに問題があるように思われる。実際、選択肢ABの何らかの決断が必要なときに、熟慮の結果、一つの選択肢Aを選択して、因果律を破っておしまいというわけではない。Aの選択を決意したときはそれほどではなくても、行動に移したとたんに、Bの方が良かったように思われて後悔し始めることも多い。このように精神活動が物理現象の間には、微妙な相互作用がある。
 人間の精神活動が脳という高度に組織化された物質により営まれる生理現象であるとすることは、なおさら決定論がふさわしいのではと思われる方もあるかもしれない。しかし、精神活動が脳という高度に組織化された物質により営まれており、精神活動が物質的制約を受けることと、自由意志を認めることは矛盾しない。精神活動は、物質のもつ能動性の自己組織化により発展してきたものである。現在の物理学は、物質の精神を生み出す機能を捨象して組み立てられているが、物質は精神活動を生み出す機能を潜在的に持っていたから、精神活動が生まれたのである。そして、人間の高度な精神活動は、下等動物における神経組織から進化発展してきたものである。自然界の動物の営みが、本能的行動から成り立っているが、そこには、人間の本能的情動にも共通する情動の萌芽からの進化発展がある。このように下等動物の段階から、物質である肉体は、精神的要素である情動により動かされて来たのである。動物の行動は、単なる本能的情動による行動だけではなく、環境に対する認識に基づく理性的行動へと徐々に進化し、人間のような高度の精神活動を営むに至ったのである。


 吉田氏は、「結語 人間の尊厳と自由」において、次のように論じている。
 
 ・・・この論文の主張は,決して人間の尊厳を踏みにじってまで冷徹な「科学的真理」を押し付けるものではない。確かに,論旨の展開に当たっては,主として科学的な知見に合致するような仮説の構築に心を砕き,それが人生の価値とどのようにかかわるかについては(ウェーバーの規範を守って)意図的に言明を避けてきた。しかし,もし結論として人間の尊厳が全く否定し去られることになったならば,いかに科学的方法論の有効性を評価する筆者といえども論証に何らかの致命的欠陥があると考えざるを得ず,論文の 執筆をためらっただろう。正直に言えば,<決定論>が人間の価値にとってそれほど破壊的でないと信じるに足る理由があったからこそ,論文を刊行する気になったのである。

 しかし、吉田氏の言うように、「<決定論>が人間の価値にとってそれほど破壊的でないと信じるに足る理由が」あるといえるのであろうか。吉田氏は次のように論じている。
 
 それでは,<過去>から<未来>に到るまで全ての事象が「事実として」決定している世界において,いかにして人間の尊厳が保証されるのだろうか。順序立てて説明していきたい。
はじめに,人文主義者が主張する(と思われる)<自由>の意味について改めて考えてみよう。いささか類型化して言えば,人間の<自由>とは,倫理的な価値の異なるいくつかの行動バターンが可能なとき,個人が外部からの規制を受けずに最終的な決断を下し得ることを意味する。ここで,判断の対象となる選択肢が(明示的か否かを別にして)複数であるという条件は本質的である。実際,もし倫理的に可能な行動が常にただ一つしか許されていないならば,人間に<自由>が備わっているとは言えないだろう。この点を考えれば,現代科学が支持する《事実的決定論》は,実現され得る行動が唯一の事実以外の何物でもないという点で,人文主義者が主張するような<自由>とはそもそも相入れないものである。こうした事情は,たとえこの<決定論>が「因果性」の極にない場合でも変わらない。この結論は,《事実的決定論》が倫理的決断能力を持つべき人間の価値を根本から否定するものと見えるだろう。

 その通り、「倫理的決断能力を持つべき人間の価値を根本から否定するもの」である。「現代科学が支持する《事実的決定論》は,実現され得る行動が唯一の事実以外の何物でもない」ところにどのような人間の価値があるのであろうか。すべては、「事実として決定している」出来事だけが展開されるのである。世界中で罪なき子供達や人々が、餓死するのも殺されるのも、現代科学が支持する《事実的決定論》によれば、「事実として決定している」出来事ということなのであろうか。
人間が行動するのでなければ、「事実として決定している」出来事は、誰が作ったものであろうか。また、「意志の力によって未来を選び取る能力がある」ように思われる私たちの実感は、何のために生まれるのか。「神が創り上げた」という以外にいかなる答えがあるのであろう。「現代科学が支持する《事実的決定論》」は全知全能の神を想定する以外に成り立たない。吉田氏は次のように論じている。
 
 しかし,上に述べた意味での<自由>が,果して人間に尊厳が認められるための必要条件なのだろうか。極端なことを言えば,次の行動バターンが複数の選択肢の中から常にランダムに選ばれるとしても,因果的な物理法則の橿格を逃れられているという意味で<自由>が享受されていると見なされるが,これは人間にとって決して名誉なことではない。おそらく,倫理学的な観点から<自由>が要請されるのは,これが絶対的な価値を有するからではなく,容赦なく進行する物理法則の「非情さ」を緩和する上で役に立っためではないかと思われる。ところが,この目的を達成するには,正体の知れない決断能力としての<自由>よりも,むしろ(次に述べるような)簡約化不能なシステムの方が有効に機能することが知られている。したがって,こうしたシステムに目を向けることによって,<自由>に拘泥せずに人間の尊厳を語る可能性が開けるはずである。

 しかし、吉田氏の言うように、「<決定論>が人間の価値にとってそれほど破壊的でないと信じるに足る理由が」あるといえるのであろうか。「次の行動バターンが複数の選択肢の中から常にランダムに選ばれるとしても,因果的な物理法則の橿格を逃れられているという意味で<自由>が享受されていると見なされるが,これは人間にとって決して名誉なことではない」というのは、その通りであろう。しかし、なぜそのような自由しかないと決めつけるのであろうか。私たちの次の行動は、複数の選択肢の中から理性的に選んでいるのであり、そのように行動できている。完全な認識には程遠い、ありあわせの現代科学?が支持する?(と吉田氏が思う)《事実的決定論》から導き出された、荒唐無稽な結論に甘んじなければならないのであろうか。
 「倫理学的な観点から<自由>が要請されるのは,これが絶対的な価値を有するからではなく,容赦なく進行する物理法則の「非情さ」を緩和する上で役に立っため」なのであろうか。そのように呑気なはなしであろうか。世界中に蔓延する悲劇や不幸をどうなくしていけるのか?倫理学的な観点から<自由>が要請されるのは、そのような切実な要請からである。「世界中で罪なき子供達や人々が、餓死するのも殺されるのも、現代科学が支持する《事実的決定論》によれば、「事実として決定している」出来事であると、呑気なことをいっている場合ではないという要請ではないだろうか。私たちはできることがあれば行動し、行動すれば自分の人生も社会も世界も変わり得ることを明らかにするために<自由>が要請されるのである。
現代科学が支持する《事実的決定論》」には、「世界中で罪なき子供達や人々が、餓死するのも殺されるのも、『事実として決定している出来事』にすぎない」という無責任な傍観者となる以外のいかなる高尚な倫理を導き出すことができるのであろうか。