吉田 伸夫氏のブログの「決定論と自由意志」を読んだ。物理学の専門家の見解として興味深かった。
物理学の非専門家として、難しいところもあるが、とりあえず感じたことを書いてみたい。
吉田氏は「本質的な問題として、単なるモデルにすぎない物理理論において示される決定性が、どこまで現実の世界で妥当するかという疑問を提出せねばなるまい」と述べているが、この指摘は正にその通りであり、このように物理理論を認識されていることは注目に値する。
吉田氏の結論は、次のようなものである。
(1) まず、<実在性>の有無を基準にして時間を過去/現在/未来に区分する古典的3分法は、今日の物理学的知見と決定的に矛盾している。これを回避するためには、全ての時刻がその存在資格において同等であると認めなければならない。そして、これを承認するならば、未定の<未来>が既定の<過去>あるいは<現在>によって定まるとする《法則的決定論》は物理学的に受け入れがたいことになり、「この」 世界では<過去>から<未来>に到る全状態が「事実として」与えられているという《事実的決定論》が妥当していると結論される(I-1節)。
(2) 次に、各時刻における状態間の相互規制をもとに、《事実的決定論》を、この制限の最も緩い「並列的」な極から最も厳しい「因果的」な極に到る軸上で捉え、現実の世界がどこに位置するかを検討する。特に、現実が並列的な極よりは因果的な極に傾いてはいるものの、極端な《因果的決定論》は時間の物理的な延長の否定に通じるため承服できないことを論じる(I-2節)。
(3) 最後に、こうした決定論がもつある種の「不快さ」を避けるために、そもそも《事実的決定論》が成り立たず、人間に何らかの選択の余地が残される理論としてはどのようなものがあるかを考察する(I-3節)。ただし、ここで示されるような非決定論的な世界はあまりに現実離れしており、これを認めるよりは決定論に甘んじた方がましだと思われる。
このように「極端な《因果的決定論》は時間の物理的な延長の否定に通じるため承服できない」が、「非決定論的な世界はあまりに現実離れしており、これを認めるよりは決定論に甘んじた方がまし」であるとして、決定論に甘んじているようである。
時間軸上の実在度
吉田氏は、ここで、実在する物理的な状態を記号|Ψ>によって表わし、実在的な状態は|Ψ(τ)>で表わされるとしている。
そして、<現在>のみが実在すると見なす(i)の見解は、実在度rが<現在>にパルス状のピークをもつ図1-I-aのグラフ(a)で表される。同様に、<現在>と<過去>の双方に実在性を認める(ii)の見解はグラフ(b)で、また、<過 去>から<未来>までの全時間が実在していると仮定する(iii)の見解はグラフ(c)で表現されることになるとする。(グラフが掲載できないので吉田氏の論文を参照されたい)
これらの見解の評価において、吉田氏は、(i)の見解は次のように批判している。
- |Ψ(τ)> が「時間的に厚みがない」――すなわち、実在する<現在>が一瞬にすぎず、微小な時間間隔δτだけ隔たっている2つの時刻の状態の問に何の共通部分も見いだされないため、ある瞬間τから次の瞬間τ+δτへと状態が“遷移する”には、|Ψ(τ)>が忽然と消失して、その代わりに|Ψ(τ+δτ)>が現れるという。物理的には理解できない状況を考えるしかない。まさに、「<過去>は何処に去り、<未来>は何処から来たら んや」である。また、(ii)の見解に関して、吉田氏は、次のように批判している。
- この見方に対しても、現代の物理学は、容赦のない批判を提出する。まず、既に(i)の見解に対する批判として述べたように、既定の<過 去>と未定の<未来>の界面としての<現在>が移動していくダイナミクスは、今日の科学的自然観とは共立しがたい。上の相転移のアナロジーは、なるほど直観には訴えるものの、実在していないはずの<未来>が物理的状態を表す“相”に擬えられるという・科学的に了解不能な言明を含 んでおり、この相転移 を実現するための物理的機構を既存の科学用語をも とに記述するのは、想像することすら困難な作業である。しかし、このような結論は、過去・現在・未来を、実在と非実在に二分して割り振ったところに起因しているのであって、|Ψ(τ)>を想定したり、ローレンツ変換を論じたりするまでもないのではなかろうか。そして吉田氏はあっさりと、「ここまでの議論を総合すれば、こんにちの物理学的な時間観として、<過去>から<未来>まで同じように実在していると見なす(iii)の見解が妥当であると結論できる」としている。そして次に別の理由を挙げている。
「この結論そのものは、物理学の専門家にとっては”当り前”にすぎて、一時的にせよこれを否定した論述を進めること自体、ひどく苦痛に感じられる程なのである。その理由は、次のようなものである。第1に、相対性理論によれば、時間と空間は1つの多様体を構成する要素として局所的には同質であり、ただ境界条件と次元数によってのみ区別される対象である。したがって、空間の中にさまざまな地形や構造物が「事実として」存在しているように、<過去>あるいは<未来>に向かう時間軸に沿っていろいろな事象が並列的に存していると考えても、何ら奇妙な点はない。」ここでの主張について特に異論はないが、決定論の根拠にはならないと思われる。「第2に、現在の物理学のパラダイムには、何か「になる(to become)」過程を記述する観念枠が存在せず、理論の取り扱いの対象となるのは、物理量がある値「である(to be)」状態に限られる。物理学の理論とは、状態を指定する適当なデータを与えればあとは自律的に結論を導出できる機械的なモデルであり、ある科学的命題が実在的か否かは、これを求めるのに使ったデータの確実性のみに依存している。このため、日常的な文脈で「<未来>の状態は未定である」と主張しても、これを科学的に解釈しようとする局面では、単にインプットすべきデータが得られ ないという状況説明に落着するだけで、未定の状態を予言する理論形式を構成することは現代科学のパラダイムにおいては不可能である。有体に言えば、物理学的な理論の内部では対象の実在性に差をつける手がかりがないのである。それだ けに、一般の物理学者にとっては、現行の物理学の枠組みを根本的に否定してまで<過去>と<未来>とが<実在度>において<現在>と異なっているとは主張できないのだろう。」ここに吉田氏の率直な本音があると思われる。しかし、これでは、自由意志があると言われても、「これを科学的に解釈しようとする局面では、単にインプットすべきデータが得られないという状況説明に落着するだけで、未定の状態を予言する理論形式を構成することは現代科学のパラダイムにおいては不可能である」ということにならないのだろうか。
そもそも物理学は、現実を過去・現在・未来の1次元的時間軸において理解するもので、過去・現在・未来を区別することがない学問ではないだろうか。しかし、過去・現在・未来は、現実的な連続性を有するものであるから、その意味で区別しないことはうなずけるが、その違いを明確にすることは必要である。
自由意志の問題は、変えることのできない過去と、未知である未来の間にある現在に特有の問題として、現実に即して弁証法的に解明される必要がある。- 吉田氏は「大局的には(保存則のおかげで)因果的だが子細にみると並列的な要素が多分にあるというのが、「この」世界を正しく反映した表現ではないだろうか。そう主張するだけの科学的根拠は乏しいが、筆者には最も正鵠を射た世界観のように思われる。 」としている。
- 説明が難解だがより詳細に読んで検討してみたい。