唯物論者において決定論の立場ととる人が多いように思う。しかし唯物論的立場を貫こうとすると自由意志を否定しなければならないのだろうか。
人体は、脳を含めて物質からできている。物質は意志を持っておらず、自然法則に従っているように思われる。脳を含めて人間の身体が物質から構成され、脳の働きを含めて、自然法則が支配しているのなら、なぜ自由意志が成立つことができるのだろうか。私たちが持つ主体性や自由意志とは何なのだろうかという疑問がわく。そもそも物質が自然法則に従うだけの存在であるならば、自分の人生も、現在は過去の結果であり、未来は現在の結果として、全てが定まっているのではないだろうか。
ラプラスの悪魔的決定論は、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」(ウィキペディア)とする。
一方、量子力学では、原子の位置と運動量の両方を正確に知ることは原理的に不可能(不確定性原理)であり、原子の運動は確率的にしか把握できないから、全てを知ることは出来ないとする。しかし、このような確率的な運動から自由意志を導き出すことも容易ではない。
そこで、ラプラスの悪魔的決定論は否定するものの、自由意志に関しては中途半端な立場をとることになる。リベットの実験などの影響もあり、人間の意識や自由意志は幻想であるとする人も多い。しかし、このような立場に満足できない人も多い。
そして、自由は本来必然的なものであると考えようとする。例えば、現代文明において、人間は科学技術により、昔はできなかったことを可能にし、自由を拡大してきている。科学技術は自然法則という必然性の認識に基づく。そして、必然性を認識できれば、選択すべき道筋も必然的に決まってくる。そして、必然性にかなった行動をとることにより自由が実現されていくというのである。したがって、自由とは元来必然的なものであるとする。
もっともらしい説明であり、人類の歴史を考えると正しい説明ではあるが、それでも我々の実感する自由意志の説明にはなっていない。
卑近な例で、私の目の前に、ペットボトル入りのお茶、ジュース、水があるとして、いずれかを選択することが本当に私の自由意志に委ねられているのだろうか。現時点において、全ての物質の物理的化学的状態が一定である(1つの初期状態)として、それから、私たちに自由意志により、3つの異なる結果の1つをもたらし得るのかどうか、である。一般に物理的に初期状態が定まっていれば、1つの結果がもたらされるはずである。お茶を選んだとして、それは、自由意志の選択の結果なのか、私の自由意志(という幻想)とは関係のなく決まった結果なのか。
私は、お茶を選んだのは、私の自由意志の選択の結果だと思う。選択肢が与えられた時点の「1つの初期状態」とは、量子論的不確定状態である。人間の意識活動は、量子論的波動運動として形成され、自由意志は、量子論的不確定状態を1つの状態に確定するメカニズムに関与しているのではないのか。そのメカニズムは未知であるが、自由意志は、量子論的不確定状態の確定をコントロールしているのではないだろうか。そのメカニズムの解明こそ、科学に求められる方向性である。
自由意志は、「1つの初期状態」から、複数の異なる結果の1つを現実に選択できるのである。「1つの初期状態」からは1つの結果しか生まれないから、自由意志はあり得ないというのは、私には本末転倒の短絡的な思考停止のように思える。
私は決定論と独我論(ここでは論じていないが)ほど不健康な理論はないと思う。あらゆる知性と努力を無意味なものにする。哲学の使命はこのような不健康な理論を克服する真理を打ち立てることだと思う。