学問における常識の優位性について、哲学者戸坂 潤は次のように言っている。
概念が歴史社会的制約を持つと考えられる時、同一の概念が日常語として又専門語として理解されること――それを吾々は最初に主張した――の理由が必然となるであろう。日常語とは云うまでもなく日常的な知識に於て語られる言葉を云うのであるが、常識は恰もこの日常的な知識を意味する。常識に於て成り立つ概念、それは常識的概念である。処で常識は一面に於て不完全な知識を意味する場合を有つであろう。まだ充分に専門的となることの出来ない処の、或いはそれ程専門的であることを必要としない処の、稍々不定な内容を持つ知識、それが常識の有つ一面である。かくすれば常識はやがて専門化せられるべき、専門化せられて初めて独立した知識となり得るような、非独立的な価値しか有たない知識として、消極的に理解されるに過ぎないであろう。この時、常識とは幼稚なる学識に過ぎないように見える。処が之に反して常識は他に、も一つの異った概念を有つ。その時、もはやそれは不完全な知識ではなくしてそれ自身完全なる知識となる、ただそれが学識ではないという迄である。それ自身に於て独立の価値ある日常的な知識、之が常識のもつ他の一つの意味でなければならない。もし常識に何も知識としての独立性と価値とがないならば、それはどのような理由の下にも、「迂遠なる」学識を嗤う権利を持つ筈はないであろう。常識が学識に対して知識の価値を対等に争い得るのは、ただそれがこのような独立の価値ある積極的知識としての常識である場合でしかあり得ない。人々はただこのような常識のみを専門的学識に対立させることが出来る―― bon-sens。故に又この意味の常識的概念のみがそれに対する専門的概念と対立する。吾々はかくして初めて日常語と専門語との区別(吾々が好んで用いた処の区別)を正当ならしめることが出来る。又かくして初めて常識的概念を分析すること(それはやがて必要となる筈である)に理由を発見することが出来るのである。何となれば、もし日常的な常識的概念が専門的概念の不完全なものに過ぎないならば、前者の分析は要するに後者の分析の不完全なものに過ぎないこととなり、常識的概念の分析は何等の結果を約束することも出来なくなるであろうから。
学問における常識の優位性とは、学問をする必要がないということではない。学問は最終的に常識に合致するものであるはずである。相対性理論にしても、GPSにおける計算値の補正など現実の役に立っており、科学的な常識にかなっている。私の哲学において重要視したいのはこのような常識である。
科学を装った、自由意志を否定する決定論は、明らかに常識に反している。また、自由意志を否定した決定論は、必然的に、神が全てのシナリオを作ったという、非科学に直結する。自由意志を否定する決定論は、短絡的な思考停止に他ならない。