自由意志について考えているうちに、本能との関係を明らかにする必要があるように感じている。本能の定義は、次のようなものである。
                哲学事典 平凡社1971
本能とは、有機体に生得的で、個別的経験とは無関係な行動傾向であり、刺激に一義的に規定される反射とは異なり、特定の刺激パターンに規定され、しかも内的に動機づけられた比較的固定的な、種に特有な生得的運動パターンともいうことができる。・・・
哲学辞典 青木書店2000
本能     一般にある動物種の全ての成員にとって共通な、遺伝的に固定された行動形態をいう。動物が環境に適応していく上での本能のもつ意義は、個体の生存と種の維持のための最も重要な生活機能(たとえば摂食、防御、生殖、移動など)の遂行を保障することである。・・・
           これらの定義は、私たちの常識にも生物学的な常識にもかなうものと思われる。つまり、本能が、個体の生存と種の維持のための最も重要な生活機能(摂食、生殖など)の遂行を保障するものであるということは、このような本能がなかったならば、人間を含む多くの動物は絶滅していたであろうと想像するに難くない。
                摂食行動は、食欲を介して動物を摂食行動に駆り立てて実現され、生殖行動は、性欲を介して動物を生殖行動に駆り立てて実現される。下等な動物においては、これらの情動が、直接的に動物の行動へと結びつき、意識と無意識の境界もあいまいと思われるが、人間の場合はそう簡単ではない。しかしながら、人間において、性欲は無意識から生まれてくるものではあるが、生殖行動に至る過程は、意識の中に位置づけられざるを得ない。
           いずれにせよ、性欲が無意識から意識に現れて、生殖行動が惹き起されると考えられる。ここで、心身の関係を考えると、生殖本能は、性欲という精神の情動により、肉体の生殖行動を惹き起すようになっている。もし、精神が肉体を動かす原因になり得ないのであれば、本能的な欲や情動は意味を成さなくなる。
            John Searleは、自由意志は、脳の物質的な活動と一体のものとして生まれる幻想であって、物質界を動かす原因となるものではないと言っている。もしそうならば、自由意志と一体になって意識を形成している本能的な情動も、本能的行動のためには必要ないし、行動に駆り立てるような欲として現れる必要も全くない。あらゆる欲望は、その対象を得るための行動の原動力ではなく、脳を含む肉体の物質的な活動と一体のものとして生まれる幻想にしか過ぎないと言うのである。
    そこでは、個体の生存と種の維持のための最も重要な生活機能(摂食、生殖など)の遂行を、本能が保障するものであるという科学的な常識さえも、成り立たないことになる。このような馬鹿げた心身論など、他の部分がいかに理論的であろうと、すでに破綻していると言わざるを得ない。
    心身論の究極の目的は、精神がどのようにして肉体を動かすか、というメカニズムを解明することであって、ありあわせのちゃちな科学的知識で、精神が幻想であるという、荒唐無稽な馬鹿げた結論を導き出すことではない。現在の物理学は精神的な要素を捨象して成り立っている。すなわち、現実の物質の働きを完全に叙述できるものになっていない簡略モデルの体系である。弁証法的唯物論の立場に立つならば、精神といえども究極的には、物質の機能として生まれるものであるはずである。原始生物の最も重要な生活機能(摂食、生殖など)の遂行のための本能及びその情動の誕生を、物理的に叙述できる新たな物理学体系が必要なのではないだろうか。