意識は、高度に組織された物質である脳の働きである。私たちの意識のような機能への進化は、生命の誕生以来の歴史がある。
生命体すなわち生物は、環境(外界)と関わることなく、生存することはできない。生物に有益な環境もあれば、有害な環境もある。最初の生物には、環境が無害か有害かを識別したり、有害な環境を避けるような能力は持っていなかったであろう。有害な環境を避けることのできない生物は生き延びることができない。そのうちに環境の無害有害を識別し、有害な環境を避けることのできる能力を備えた生物が現れより生き延びることができるようになった。
そのような有害無害を識別する機能をつかさどるものとして感覚器官が生まれたのではないだろうか。そのように有害無害を識別したら、その情報がその生物の行動に結びつかきなければならない。生物の感覚は、その始まりから行動に結びつくものとして生まれたと言えるであろう。有害な環境を避ける行動をとらせる感覚として、不快感が生まれ、有益な環境を選択させる感覚として快感が生まれた。
原始的な生物をより好ましい環境へと移動させる快不快という感覚、ここにすでに意識やクオリアひいては喜怒哀楽の精神の萌芽がある。また理性は、もともと環境の無害有害を識別するための、認識機能が発展したものである。このように、クオリアや意識のような精神的なものは、生物の肉体の行動と結びついたものとして誕生したのであり、精神と肉体(すなわち物質)とを、もともと切り離して考えるのは、人間の抽象でしかない。
心身二元論の基本的な問題点は、物理的存在である身体と、非物理的存在である精神を想定していることである。そしてこれらがどのように関わることができるかという問題を解こうとしても、解けるはずがないのである。なぜなら、精神が非物理的存在であるとするならば、物理的存在と関わりようがないのは当然のことである。現実には身体と精神は切っても切れないものであることを無視して、関わることのできないものを頭の中ででっち上げて、それらの関わりを説明しようとするから解けない難問となるのである。
物理的存在である身体と、非物理的存在である精神とは何だろうか。それは人間が便宜的に抽象した概念に過ぎない。抽象的概念に囚われて、現実をとらえることを忘れているところに、心身二元論の落とし穴がある。ヘーゲルやマルクスが形而上学的な思考方法と批判したのは、このような捕らえ方である。
これに対して、固定的な概念に囚われずに現実をありのままとらえることこそ、弁証法的なアプローチである。物質と精神の超えることのできない境界は、二元論者の頭の中にのみ存在するのであって、現実には存在しない。物質と精神は切っても切れない関係をもち、常に一体となって進化発展してきたのである。
宇宙の歴史は、低次の物質から高次元の物質への発展の歴史である。それは、精神の潜在的な機能しかもたなかった単なるエネルギーとしての物質から、人間のような高度な精神と肉体を備えた高度の有機体への進化、さらには、動物としてのヒトから、人類とさまざまな文明をへて現代に至った社会への進化の歴史である。
生命体すなわち生物は、環境(外界)と関わることなく、生存することはできない。生物に有益な環境もあれば、有害な環境もある。最初の生物には、環境が無害か有害かを識別したり、有害な環境を避けるような能力は持っていなかったであろう。有害な環境を避けることのできない生物は生き延びることができない。そのうちに環境の無害有害を識別し、有害な環境を避けることのできる能力を備えた生物が現れより生き延びることができるようになった。
そのような有害無害を識別する機能をつかさどるものとして感覚器官が生まれたのではないだろうか。そのように有害無害を識別したら、その情報がその生物の行動に結びつかきなければならない。生物の感覚は、その始まりから行動に結びつくものとして生まれたと言えるであろう。有害な環境を避ける行動をとらせる感覚として、不快感が生まれ、有益な環境を選択させる感覚として快感が生まれた。
原始的な生物をより好ましい環境へと移動させる快不快という感覚、ここにすでに意識やクオリアひいては喜怒哀楽の精神の萌芽がある。また理性は、もともと環境の無害有害を識別するための、認識機能が発展したものである。このように、クオリアや意識のような精神的なものは、生物の肉体の行動と結びついたものとして誕生したのであり、精神と肉体(すなわち物質)とを、もともと切り離して考えるのは、人間の抽象でしかない。
心身二元論の基本的な問題点は、物理的存在である身体と、非物理的存在である精神を想定していることである。そしてこれらがどのように関わることができるかという問題を解こうとしても、解けるはずがないのである。なぜなら、精神が非物理的存在であるとするならば、物理的存在と関わりようがないのは当然のことである。現実には身体と精神は切っても切れないものであることを無視して、関わることのできないものを頭の中ででっち上げて、それらの関わりを説明しようとするから解けない難問となるのである。
物理的存在である身体と、非物理的存在である精神とは何だろうか。それは人間が便宜的に抽象した概念に過ぎない。抽象的概念に囚われて、現実をとらえることを忘れているところに、心身二元論の落とし穴がある。ヘーゲルやマルクスが形而上学的な思考方法と批判したのは、このような捕らえ方である。
これに対して、固定的な概念に囚われずに現実をありのままとらえることこそ、弁証法的なアプローチである。物質と精神の超えることのできない境界は、二元論者の頭の中にのみ存在するのであって、現実には存在しない。物質と精神は切っても切れない関係をもち、常に一体となって進化発展してきたのである。
宇宙の歴史は、低次の物質から高次元の物質への発展の歴史である。それは、精神の潜在的な機能しかもたなかった単なるエネルギーとしての物質から、人間のような高度な精神と肉体を備えた高度の有機体への進化、さらには、動物としてのヒトから、人類とさまざまな文明をへて現代に至った社会への進化の歴史である。