人体は、脳を含めて物質からできている。物質は意志を持っておらず、自然法則に従っているように思われる。脳を含めて人間の身体が物質から構成され、脳の働きを含めて、自然法則が支配しているのなら、なぜ自由意志が成立つことができるのだろうか。私たちが持つ主体性や自由意志とは何なのだろうかという疑問がわく。そもそも物質が自然法則に従うだけの存在であるならば、自分の人生も、現在は過去の結果であり、未来は現在の結果として、全てが定まっているのではないだろうか。
神の存在に関しては疑問を抱いている人々も、この辺になると明確な回答を持っている人は少ないように思われる。科学者や唯物論者と称する人々でさえ、同様である。
●自由意志と決定論
デカルトは、精神と物体との二元論を唱えた。すなわち、自然界は物質の機械的な運動からなっており、神が物質に最初の運動を与え、この運動とは独立して、人間の精神の営みも、神によって与えられるものとした。しかし、この二元論では、例えば、右手を上げようという意志により右手が上がるという現象において、神に起因する精神と、機械的な運動法則に従う肉体とが、なぜ一致するのかをうまく説明することができない。また、悲しいと涙がでることも説明できない。
このような機械的世界観によると、宇宙のすべてのできごとは、宇宙の始まりの時点の状態(初期条件)によって決まっているという、機械的な決定論とならざるを得ない。機械的な決定論は、現在ではあまり支持されなくなっている。量子力学は、素粒子が確定した位置と運動量を有する粒子ではなく、確率的な法則性を有していることを明らかにしており、また、これらを確定できないのは、もともと素粒子が不確定な存在であるからと解釈されている。また、自然界の存在は無限の相互作用から成っており、このように多数の因子が相互作用するシステムにおいて、システムの振舞いは予測不可能なものである。
しかし、自然界が不確定であり、また、その予測が不可能であったとしても、それによって、自由意志が存在することの明確な説明にはなっていない。なぜなら、予測が不可能であることから、自由意志が不確定な幻であるという主張も可能である。また、予測が不可能だからといって、自由意志が不確定な状態を支配し確定する力を持ち得ることにはならないからである。
現在では、機械的な決定論を唱える人々は少ないであろう。しかし、すべての出来事が、意志とは無関係に決まっているという意味で自由意志を否定する人々は多い。このような考えを名づけた適切な呼び方を知らないが、すべての出来事が不確定ではあるが、自由意志とは無関係に決定されるという意味で、決定論の亜流であり、「不確定的決定論」と呼ぶのがふさわしいように思われる。
●リベットの実験
(ここでは、実験手法には触れません。関心のある方はインターネットの検索記事などを拾い読みすれば概要をつかむことができるでしょう。)
不確定的決定論に対して、大きな科学的根拠を与えたものは、リベット(Benjamin Libet)の実験である。リベットは、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始されることを発見したとされる。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定として意識されていることを暗示している。しかし、リベットの実験は、自由意志の否定の根拠となるのだろうか。リベットの実験は、「自由意志」とは何かについて、さらに突っ込んで論ずる問題提起となるものではあっても、自由意志の否定の根拠にはならないように、私には思われる。
●自由意志のとらえ方
リベットの実験により、軌道修正が迫られているのは、人間のあり方を、絶えざる状況変化に対して、絶えず「意識的決定」により行動しているとするとらえ方ではないだろうか。リベットの実験で被験者は、任意の時点で手首を動かす動作を行っているが、仮にその動作が「意識的決定」によるものだったとして、ある時点でその「意識的決定」をさせたもの(衝動)が、無意識的なものであるならば、それを「自由意志」による行動と言うことができるであろうか。結局は無意識に支配されていることにならないだろうか。意識的決定を徹底するためには、その時点でその「意識的決定」をするようにさらにそれ以前にさかのぼる「遡及的意識的決定」が必要となる。すると、その「遡及的意識的決定」に対して、第二の「遡及的意識的決定」が必要になることになる。このように、いくら過去にさかのぼっても、無意識による支配からは逃れることができないことになる。リベットの実験は、このような意識的決定のとらえ方が誤りであることを示すものであろう。
このような論理は、古代ギリシアのエレア派の哲学者ゼノンのパラドックス、「アキレスは亀に追いつけない」と同様のものである。パラドックスはあくまでも論理的ではあるが、現実は、アキレスは亀に追いつけるのであり、パラドックスは誤りに基づいている。アキレスと亀のパラドックスは、数学的にも、等比級数の和として、ある時点に収束することが証明できる。
話がそれたが、人間のあり方が、「絶えざる状況変化に対して、次から次へと「意識的決定」による動作や行動を行っている」とするとらえ方そのものが、問題を含んでいるから、無意識による支配からは逃れることができず、自由意志などないという結論に至るのである。そこでは、無意識と意識、無意識と自由意志とが対立的にとらえられている。このような問題の解決には、まさにこれらを統一的にとらえる弁証法的なアプローチが必要になる。
●自由意志と無意識
人間の現実の行動は、実際には殆どが無意識的に行われている。しかし、そのような行動において、人間が無意識によって支配され自由意志がないのではなく、むしろ自由意志が無意識的行動の中にも貫かれているのである。無意識の行動の中にも、それを自律的にコントロールするその人の意識や自由意志が反映されている。
人間の行動は、瞬間瞬間の状況の変化に対する「意識的決定」の連続に基づくものではない。人間の行動は多重的である。飛んできたボールをとっさによけるような場当たり的行動から、事業を起こす、医者または弁護士になるというような長期的な計画的な行動などもある。(さらに、いくつもの組織を巻き込んだ巨大プロジェクトなども人間の行動の延長線上にあるが、ここでは論ずることは避けたい)。長期的な計画的な行動となると、そのプロセス全体に渡って「意識的決定」がなされているのであり、場当たり的な「意識的決定」とは明らかに異なる。
しかも、重要なことは、人生において「自由」に関わる問題は、場当たり的な「意識的決定」の問題ではなく、どのように夢を実現するかなど、殆どの場合、長期的な計画的な行動の問題なのである。
●物質と精神
人間は、肉体を持つとともに精神を持っている。人間の肉体のみを観察していても人間を理解できないし、人間の精神のみを観察していても人間を理解することはできない。人間を理解する上で、肉体と精神を切り離すことはできない。
それでは、犬の場合はどうであろう。犬も肉体を持つとともに一定の精神を持っている。犬を真に理解するためには、肉体と精神を切り離すことはできないであろう。それではカラスはどうだろう。昆虫はどうだろう。
それでは、犬の場合はどうであろう。犬も肉体を持つとともに一定の精神を持っている。犬を真に理解するためには、肉体と精神を切り離すことはできないであろう。それではカラスはどうだろう。昆虫はどうだろう。
家の中でゴキブリを発見し、殺そうとして空振りすると、ゴキブリは必死で逃げようとする。その様は、同じような状況に追い込まれた人間の行動とも共通しており、ゴキブリはゴキブリなりに恐怖と戦っているのかもしれない。少なくとも、ゴキブリは「逃げなければ」という衝動に駆られて逃げているはずである。「一寸の虫にも三分の魂」というが、この言葉は精神的なはたらきが高等生物のみに限られないことを表すものではないだろうか。
単細胞生物はどうであろう。単細胞生物であっても、有害な環境が迫ってくれば、それから遠ざかるように行動するのではないだろうか。そのような行動に駆り立てるのは、原始的な下等なレベルではあっても、快不快が衝動になっているのではないだろうか。
それでは、無生物ではどうなのであろう。精神的な活動は恐らくないであろう。しかし、精神的な要素とは、生物になって初めて出現するのであろうか。無生物を構成する素粒子と、生物を構成する素粒子は異なるのであろうか。異なってはいないはずである。なぜ生物に精神的活動があるのかという問いに対して、生物が誕生した瞬間、あるいはあるレベルの生物に進化時点に、神が精神を吹き込んだという解釈を避けるためには、すなわち、科学的に世界を理解する立場をとるためには、無生物を構成する素粒子も、精神を構成する潜在的機能を備えていると、理解せざるを得ないはずである。それがどのようなものであるかは、現時点ではわかっていないかもしれない。そのような潜在的機能を検知することは難しいであろうが、検知することが難しいことと、存在しないこととは、まったく別のことである。「一寸の虫にも三分の魂」を借りれば、「ナノサイズの原子にも、その3分の1相当の精神的機能の萌芽」があるのではないか。
物質をこのようにとらえることこそ、現実に即したとらえかたであろう。「能動性を持たず、自然法則に従うだけの物質」というものは、人間の頭の中で作り上げられた、抽象的産物である。「能動性を持たず、自然法則に従うだけの物質」は、力学上の「質点」と同様に、抽象的なモデルであり、現実には存在しない。現実に存在するのは、宇宙の誕生以来、誰の意志が介在することもなく、自ら活動し続ける物質である。
現実に存在する精神と物質との関係から出発せずに、抽象された「能動性を持たず、自然法則に従うだけの物質」から出発して、「人間の精神の主体性や自由意志は生まれない」と演繹する物質観や世界観は本末転倒と言わざるを得ない。科学的な見方を徹底するには、現実をありのままとらえるという原点に立ち返る必要があるだろう。
人間の精神は、自ら活動する物質が、人体と脳という形で、自らを組織化して生み出したはたらきであり、このように物質は自ら精神を産み出す力を持っている存在である。すなわち、人間の精神は、物質の持つ主体的機能が、高度に組織化されたものであり、物質の本質に根ざしたものである。それは、リベットの実験の意義を過大に解釈する人々が想定するような、機械的な運動法則に従う物質から作られた自動機械に宿る幻想ではない。
もしそのような幻想であるならば、あたかも自由意志が存在するような幻想が私たちの意識に、なぜ現れるのかの説明がつかない。また、人間が意識的に造った機械やシステムが、整然と機能していることも説明がつかない。すべて神がそのように仕組んで世界を作ったのだという説明が関の山である。リベットの実験という科学を基礎にしてスタートしながら、究極のところで、神を持ち出さねば説明がつかない理論に疑問を抱かないのであれば、神により天地が創造されたとする説明に疑問を抱かない人々と、五十歩百歩であろう。
我々の主体性と自由意志は、物質に基礎を置き、物質に働きかける現実の力を持っているのである。
神に頼らずに全てを説明しようとする考え方は、人間の傲慢な考えであるとの宗教の側から批判は、古代から常に行われてきたものである。しかし、少なくとも世界のあり方の説明に関して、科学は常に前進し、宗教は常に後退を余儀なくされてきたのではないだろうか。