過去の記事に関して、議論を補強して見ました。
◆「自分の外の世界は存在するのだろうか」
私たちは時々錯覚することがあります。ですから、常に自分の感覚を信じる事は出来ません。すべての存在を疑ってみると、結局すべての存在は、自分が感じるということであって、自分の感覚を抜きにしては、それらの存在を確認できないということができます。ですから、自分にとって確実なのは、感覚以外にないと考えると、自分の外の世界は本当に存在するのかという疑問がわきます。確かに、自分に見えている世界が幻でないという証明はできないように思われます。すなわち、そこまで疑うと証明の手段もないのです。
哲学に興味を抱く人に、独我論に関心を持つ人の多いことは、私には驚きです。このように「日頃当たり前だと思っていた世界が、幻かもしれない」と考えることは、いかにも新鮮で面白く思えるのかも知れません。独我論は、考える一つのステップとしてなら、問題はないと思いますが、このような考えからは、健全な議論は何も出てこないことを早いうちに認識すべきではないかと思います。
この質問をまじめに考えている人に対しては、逆に「どのような証明があれば、外の世界の存在または不存在を確信することが可能になるのか」をたずねてみたいと思います。そうすれば、その人は、そもそも自分が、あらゆる証明を否定していることに気がつくのではないでしょうか。
◆「自分の外の世界は存在するのか」という疑問の行き着く先
感覚のみを確かな存在とする考え方を徹底すれば、外の世界も、自分以外の他人の存在も確認できないことになります。親兄弟にについても同様です。デカルトはそこで、考えている自分が存在することを否定することはできない事を見出しました。そしてそのように理性的に考えることにより、真理を認識することができると考えました。しかし、すべての経験は感覚によるものですから、感覚を否定すると、それ以上先へ進むことができないのです。仮に世界中の人がこの考え方を納得したとしましょう。
ある日あなたがあなたの大切な人(親、兄弟、恋人、夫、妻、子供その他だれでも)と道を歩いています。そこへ車が猛スピ-ドであなた達をめがけて突っ込んできました。あなたは辛うじて難を逃れましたが、あなたの大切な人は重症を負って、血が流れ一刻を争う状況です。
そこへ運転手が、あなたたちのそばへ来ます。あなたは「何てことをしてくれたのだ」と叫びます。運転手は「私には、確かに猛スピードで誰かに当たったという感覚があったし、その人がこの人で、重症を負ったように見える感覚が、確かにある。しかし、感覚があるということと、この人が重症を負っているということが実在するということは、私は別だと思う。」と言います。
あなたは、「その通りです。私もそう思います。」と言うでしょうか。「馬鹿なことを言うのもいい加減にしろ。」と叫ぶのではないでしょうか。現実の世界において正に「馬鹿なこと」でしかないのです。果たしてこれを哲学と呼ぶに値するものでしょうか。
◆現実と哲学との使い分け?
あなたは、「私はもちろんすぐに救急車を呼ぶし、普通に対応しますよ。」と言うでしょう。それではあなたの好きな「自分の外の世界は存在するのだろうか」という世界観はどこへ行ったのでしょう。救急車を呼ぶと大切な人を助けてくれるだろうという根拠はどこにあるのでしょうか。「自分の外の世界は存在する」という確信より、強い確信になり得るのでしょうか。
「現実の話と、哲学の話は別ですよ」とあなたは言うでしょう。しかし、自分の外の世界が存在するかしないかという議論は、現実の話ではないのでしょうか。現実ではない「世界」で何かが存在するかどうかを考えるとは、どういう意味でしょうか。
また、あなたは日常生活を現実と考えているとするなら、それは正に外の世界が存在するということを、了解しているのであり、「自分の外の世界は存在するのだろうか」というのは、単なる言葉の遊びにしか過ぎないのではないでしょうか。私は哲学とは、自分が現実をどう生きるかに関わるものであり、現実を如何にとらえるかということを論ずるものだと思います。哲学は「たわごと」であってはならないのです。
外の世界が存在しなくても、外の世界が存在するのとまったく同じ感覚が与えられているならば、外の世界があると信じるだろうと、懐疑主義者はいうでしょう。しかし、外の世界が存在するような感覚が与えられている事実に対して、「外の世界が存在するから」と言う以上に、信憑性のある理由を、私は考えることができません。
神や悪魔がそのような感覚を与えて、私の外の世界が存在するかのように、私に錯覚させようとしているかもしれないなどという、荒唐無稽な可能性を採用して、私の外の世界が存在するという私自身の実感を否定すべき、説得力のある根拠は何もありません。懐疑主義者は、「外の世界が存在するから」という説明よりも、神や悪魔が、私に錯覚させようとしている可能性が高いとでも言うのでしょうか。
◆感覚と常識は真理の探究における究極的よりどころ
感覚と常識は、真理の探究における究極的なよりどころであり、基準となるものです。相対性理論にせよ、素粒子論にしても、その理論の正しさは、実験や観測など、何らかの感覚の延長線上にあるデータに基づいて評価されています。どのように抽象的な高度の科学理論であっても、最終的には、感覚で認識できる形で常識に基づいて確認されているのであり、感覚全般の信頼性を否定することによっては、科学も成立することができませんし、あらゆる真理の探究は意味を失うでしょう。
一時的な錯覚というものが存在することによって、感覚一般を信頼できないとすることには、論理の飛躍があります。足し算を短時間に1万回やらせて、1つでも間違った人を、足し算を知らない人間だと言うのと同じようなものです。 1つの例外によって、全てを否定するのは、ひとつの詭弁です。
外の世界が存在しないと考えると、現在の生活のことも、人生全般に関しても、何も考えられませんし、何もすることができません。そこにあるのはあなたの意識と幻覚だけです。
しかし、これまでの人生において、外の世界が存在するものとして考えることによって、不都合は発生していないし、これからの人生においても不都合が発生するとは思えません。「外の世界が存在しない可能性」を信ずることが、無差別殺人などの馬鹿げた行動を引き起こすことはあり得ても、「外の世界が存在すること」を確信することにより、人生において誤ることはないでしょう。
これは、相対性理論を知らなくても、人生で不都合はなかったし、これからも不都合はないだろうと言うのとはちがいます。GPSにおいて正確な位置を知るためには、相対性理論が適用されているそうです。相対性理論でさえも、私たちの現実の生活と無関係ではありません。
◆現象学について
現象学が、「意識の外に客観的世界が実在している」という思い込みを一時的に保留(エポケー)した上で、この確信がなぜ成り立っているのかを問い質すということには、一定の哲学的意義はあるでしょう。つまり現象学というものは、認識過程を明らかにする思考の方法論であり、そう理解することにより、現象学の真価を正しく理解することができるのではないでしょうか。現象学そのものは、決して世界観を形成するものであってはならないように思われます。
世界観として「意識の外に客観的世界が実在している」ことに対して、いつまでも「エポケー」にこだわるのは、無駄な努力でしかないのではないでしょうか。「自分の外の世界は幻である」ことを前提に思考を進めても、有意義な成果は生まれようはずがないように、私には思えます。現象学を世界観に結び付けることは、現象学の本来の意義を見失わせ、ヒマ人のたわごとにしてしまうように、私には思えてしまいます。
もし、現象学が、「意識の外に客観的世界が実在している」ことを否定するものでないと言うのであれば、いつまでも「エポケー」する必要がないのではないでしょうか。「エポケー」することが必要であるというならば、私の外の世界が存在するかのように、神や悪魔が、私に錯覚させようとしているかもしれないなどという、荒唐無稽な世界観の片棒を担ぐことに他ならないでしょう。
◆「自分の外の世界は存在するのだろうか」
私たちは時々錯覚することがあります。ですから、常に自分の感覚を信じる事は出来ません。すべての存在を疑ってみると、結局すべての存在は、自分が感じるということであって、自分の感覚を抜きにしては、それらの存在を確認できないということができます。ですから、自分にとって確実なのは、感覚以外にないと考えると、自分の外の世界は本当に存在するのかという疑問がわきます。確かに、自分に見えている世界が幻でないという証明はできないように思われます。すなわち、そこまで疑うと証明の手段もないのです。
哲学に興味を抱く人に、独我論に関心を持つ人の多いことは、私には驚きです。このように「日頃当たり前だと思っていた世界が、幻かもしれない」と考えることは、いかにも新鮮で面白く思えるのかも知れません。独我論は、考える一つのステップとしてなら、問題はないと思いますが、このような考えからは、健全な議論は何も出てこないことを早いうちに認識すべきではないかと思います。
この質問をまじめに考えている人に対しては、逆に「どのような証明があれば、外の世界の存在または不存在を確信することが可能になるのか」をたずねてみたいと思います。そうすれば、その人は、そもそも自分が、あらゆる証明を否定していることに気がつくのではないでしょうか。
◆「自分の外の世界は存在するのか」という疑問の行き着く先
感覚のみを確かな存在とする考え方を徹底すれば、外の世界も、自分以外の他人の存在も確認できないことになります。親兄弟にについても同様です。デカルトはそこで、考えている自分が存在することを否定することはできない事を見出しました。そしてそのように理性的に考えることにより、真理を認識することができると考えました。しかし、すべての経験は感覚によるものですから、感覚を否定すると、それ以上先へ進むことができないのです。仮に世界中の人がこの考え方を納得したとしましょう。
ある日あなたがあなたの大切な人(親、兄弟、恋人、夫、妻、子供その他だれでも)と道を歩いています。そこへ車が猛スピ-ドであなた達をめがけて突っ込んできました。あなたは辛うじて難を逃れましたが、あなたの大切な人は重症を負って、血が流れ一刻を争う状況です。
そこへ運転手が、あなたたちのそばへ来ます。あなたは「何てことをしてくれたのだ」と叫びます。運転手は「私には、確かに猛スピードで誰かに当たったという感覚があったし、その人がこの人で、重症を負ったように見える感覚が、確かにある。しかし、感覚があるということと、この人が重症を負っているということが実在するということは、私は別だと思う。」と言います。
あなたは、「その通りです。私もそう思います。」と言うでしょうか。「馬鹿なことを言うのもいい加減にしろ。」と叫ぶのではないでしょうか。現実の世界において正に「馬鹿なこと」でしかないのです。果たしてこれを哲学と呼ぶに値するものでしょうか。
◆現実と哲学との使い分け?
あなたは、「私はもちろんすぐに救急車を呼ぶし、普通に対応しますよ。」と言うでしょう。それではあなたの好きな「自分の外の世界は存在するのだろうか」という世界観はどこへ行ったのでしょう。救急車を呼ぶと大切な人を助けてくれるだろうという根拠はどこにあるのでしょうか。「自分の外の世界は存在する」という確信より、強い確信になり得るのでしょうか。
「現実の話と、哲学の話は別ですよ」とあなたは言うでしょう。しかし、自分の外の世界が存在するかしないかという議論は、現実の話ではないのでしょうか。現実ではない「世界」で何かが存在するかどうかを考えるとは、どういう意味でしょうか。
また、あなたは日常生活を現実と考えているとするなら、それは正に外の世界が存在するということを、了解しているのであり、「自分の外の世界は存在するのだろうか」というのは、単なる言葉の遊びにしか過ぎないのではないでしょうか。私は哲学とは、自分が現実をどう生きるかに関わるものであり、現実を如何にとらえるかということを論ずるものだと思います。哲学は「たわごと」であってはならないのです。
外の世界が存在しなくても、外の世界が存在するのとまったく同じ感覚が与えられているならば、外の世界があると信じるだろうと、懐疑主義者はいうでしょう。しかし、外の世界が存在するような感覚が与えられている事実に対して、「外の世界が存在するから」と言う以上に、信憑性のある理由を、私は考えることができません。
神や悪魔がそのような感覚を与えて、私の外の世界が存在するかのように、私に錯覚させようとしているかもしれないなどという、荒唐無稽な可能性を採用して、私の外の世界が存在するという私自身の実感を否定すべき、説得力のある根拠は何もありません。懐疑主義者は、「外の世界が存在するから」という説明よりも、神や悪魔が、私に錯覚させようとしている可能性が高いとでも言うのでしょうか。
◆感覚と常識は真理の探究における究極的よりどころ
感覚と常識は、真理の探究における究極的なよりどころであり、基準となるものです。相対性理論にせよ、素粒子論にしても、その理論の正しさは、実験や観測など、何らかの感覚の延長線上にあるデータに基づいて評価されています。どのように抽象的な高度の科学理論であっても、最終的には、感覚で認識できる形で常識に基づいて確認されているのであり、感覚全般の信頼性を否定することによっては、科学も成立することができませんし、あらゆる真理の探究は意味を失うでしょう。
一時的な錯覚というものが存在することによって、感覚一般を信頼できないとすることには、論理の飛躍があります。足し算を短時間に1万回やらせて、1つでも間違った人を、足し算を知らない人間だと言うのと同じようなものです。 1つの例外によって、全てを否定するのは、ひとつの詭弁です。
外の世界が存在しないと考えると、現在の生活のことも、人生全般に関しても、何も考えられませんし、何もすることができません。そこにあるのはあなたの意識と幻覚だけです。
しかし、これまでの人生において、外の世界が存在するものとして考えることによって、不都合は発生していないし、これからの人生においても不都合が発生するとは思えません。「外の世界が存在しない可能性」を信ずることが、無差別殺人などの馬鹿げた行動を引き起こすことはあり得ても、「外の世界が存在すること」を確信することにより、人生において誤ることはないでしょう。
これは、相対性理論を知らなくても、人生で不都合はなかったし、これからも不都合はないだろうと言うのとはちがいます。GPSにおいて正確な位置を知るためには、相対性理論が適用されているそうです。相対性理論でさえも、私たちの現実の生活と無関係ではありません。
◆現象学について
現象学が、「意識の外に客観的世界が実在している」という思い込みを一時的に保留(エポケー)した上で、この確信がなぜ成り立っているのかを問い質すということには、一定の哲学的意義はあるでしょう。つまり現象学というものは、認識過程を明らかにする思考の方法論であり、そう理解することにより、現象学の真価を正しく理解することができるのではないでしょうか。現象学そのものは、決して世界観を形成するものであってはならないように思われます。
世界観として「意識の外に客観的世界が実在している」ことに対して、いつまでも「エポケー」にこだわるのは、無駄な努力でしかないのではないでしょうか。「自分の外の世界は幻である」ことを前提に思考を進めても、有意義な成果は生まれようはずがないように、私には思えます。現象学を世界観に結び付けることは、現象学の本来の意義を見失わせ、ヒマ人のたわごとにしてしまうように、私には思えてしまいます。
もし、現象学が、「意識の外に客観的世界が実在している」ことを否定するものでないと言うのであれば、いつまでも「エポケー」する必要がないのではないでしょうか。「エポケー」することが必要であるというならば、私の外の世界が存在するかのように、神や悪魔が、私に錯覚させようとしているかもしれないなどという、荒唐無稽な世界観の片棒を担ぐことに他ならないでしょう。