下記は、私の記事というより、覚書です。そのうち、まとめてみたいと思います。
唯物論において、【「物質」を「根源的なもの」として据える必要はなく、「変化し続けているコト」こそが本源的】とおっしゃるのは、少し明確にする必要があると思います。
まず、変化するのは何でしょうか。何かがあるという前提なしに、「変化し続けているコト」が本源的であるというのは、どういうことでしょうか。
【大きさと形を備えた「物質」】は、最近の物質の定義としては、狭すぎるのではないでしょうか。唯物論では、物質とは、「意識とは独立した存在」即ち客観的実在を意味するものと考えます。
エネルギーはそれ自体、大きさや形を備えているとは言えませんが、明らかに「物質」のカテゴリに属するものです。そもそも「E=mC2」が示すように究極的に物質はエネルギーに還元されるものと言えるのではないでしょうか。
私は、究極の物質であるエネルギーが存在し、それが変化し続けているのであり、その全体が自然であり、物質(エネルギー)の存在を前提としないで「変化し続けているコト」が本源的とは言えないのではないかと存じます。
また、【「自然」とは「一連の変化」そのものを指し、「精神」とはそれを「思考の世界(=観念の世界)」に移したもの】であるとされるのも、「精神」の主体性を正確に捉えた定義とは言えないと思われます。
私が定義するならば、精神とは、「自ら運動する物質が発展の中で高度に組織化されることにより生まれた脳によって営まれる主体的働き」というようにしたいと存じます。
私の現在の関心事は、そこでの自由意志と自然界の不確定性がどのように関連しているかということについて、明らかにしたいということです。
唯物論において、【「物質」を「根源的なもの」として据える必要はなく、「変化し続けているコト」こそが本源的】とおっしゃるのは、少し明確にする必要があると思います。
まず、変化するのは何でしょうか。何かがあるという前提なしに、「変化し続けているコト」が本源的であるというのは、どういうことでしょうか。
【大きさと形を備えた「物質」】は、最近の物質の定義としては、狭すぎるのではないでしょうか。唯物論では、物質とは、「意識とは独立した存在」即ち客観的実在を意味するものと考えます。
エネルギーはそれ自体、大きさや形を備えているとは言えませんが、明らかに「物質」のカテゴリに属するものです。そもそも「E=mC2」が示すように究極的に物質はエネルギーに還元されるものと言えるのではないでしょうか。
私は、究極の物質であるエネルギーが存在し、それが変化し続けているのであり、その全体が自然であり、物質(エネルギー)の存在を前提としないで「変化し続けているコト」が本源的とは言えないのではないかと存じます。
また、【「自然」とは「一連の変化」そのものを指し、「精神」とはそれを「思考の世界(=観念の世界)」に移したもの】であるとされるのも、「精神」の主体性を正確に捉えた定義とは言えないと思われます。
私が定義するならば、精神とは、「自ら運動する物質が発展の中で高度に組織化されることにより生まれた脳によって営まれる主体的働き」というようにしたいと存じます。
私の現在の関心事は、そこでの自由意志と自然界の不確定性がどのように関連しているかということについて、明らかにしたいということです。