●クオリアとは

クオリアとは、私にとって私しか感じることのできないその「感じ」そのものである。「目の前にあるこのリンゴの赤」、「今窓の外に見える空の青さ」、「好きなこの曲を聴くときの何とも言えないこの感じ」、といった、私に関わる世界のあらゆる意識的な体験そのものである。

これらを感じているとき、脳の中では様々な信号が流れている。しかし、そのような脳の状態は、クオリアではない。外部からの観察だけからは説明できない「現実の感覚それ自体」である。非常に身近な概念であるにも関わらず、クオリアは科学的にどう取り扱われるべき概念なのかが良く分かっていない。

クオリアは、私たちの精神世界の大きな部分を占めている。すなわち精神と身体と言う観点から見れば、精神の部分をなすと考えてよいだろう。私たちには、周りの世界が見え、周りの世界の音が聞こえ、五感が私たちの気分に影響を及ぼしている。

●クオリアの役割

五感に基づく快感や不快感は、私たちの行動の方向を決めるための役割を果たしている。例えば、悪臭がすれば、そこから手っ取り早く遠ざかるか、悪臭の元を取り除く行動をとる。多くの食物は食欲を促す好ましい香りを発するし、排泄物は不快な臭気を発する。これは生物的に、自分にとって有益なものと有害なものとを無意識により分ける役割を果たしている。好ましい香りによる快感と悪臭による不快感もクオリアである。

つまり、クオリアは生物の生存のためのメカニズムとして機能していると言うことができる。しかし、クオリアはそれだけに止まっていない。五感に快感を伴うクオリアそのものが目的化する。その典型は芸術やスポーツである。これらは生存に直接関係のないところの快感を伴うクオリアの追求と言えるのではないだろうか。

それだけではない。人生の究極的な目的は、自分とすべての人々の幸福を追求することということができる。その幸福とは何かを考えると、究極的には快適さである。快楽主義にせよ禁欲主義にせよ、どのような理論であろうと幸福論の根底には快適さがあることが求められる。「苦労は必要だ」と言われるのも、苦労してこそ、より幸福を実感できるからに他ならない。

●クオリアと心身二元論

生存と直接関係あるにせよないにせよクオリアは、我々の行動の方向性を与える原動力となっていることは間違いないように思われる。すなわち、クオリアはもともと我々の行動のためにある。行動とは当然身体的行動を主とするすべての活動を指す。心身二元論は、この基本的な点を見落としているのではないだろうか。すなわち我々の精神はもともと身体の行動の方向性を与えるために発生したものであり、精神と身体の運動とは切っても切れない関係にある。

「非物理的な存在である精神が、物理的な存在である身体を動かすことはあり得ない」などと言うのは、架空の産物である論理的な概念に縛られた発想に基づいている。クオリアにせよ精神にせよ「非物理的な存在」なのではなく、物理的世界における特定の現象を指すものであり、脳という物理的な存在に基礎を置き、身体を動かすメカニズムである。と言っても、私が他の記事で何度も言っているように、精神は自然法則にのみに従う受動的な鏡像のようなものではないことは言うまでもない。