光文社新書の河野哲也著「暴走する脳科学」を読んだ。副題として「哲学・倫理学からの批判的検討」と付けられている。いろいろと得るところがある本である。興味のある方にはお奨めである。
特に私にとっては、「意図的な行為」とは何か、「自由はどこにあるか」について、自分の考えを整理する上でも示唆に富んでおり、非常に感銘を受けた。これらに関して、私流にまとめると、次のようになる。
 
古典的な考え方によれば、「意図的な行為とは、決意によって引起された身体的行動」とされるが、現代の哲学では、この考え方は殆ど支持されていない。それは、意図的な行為は必ずしも決意を伴うものではないからである。われわれは、日常的に意図的行為を行っているが、「さあ、やろう」という決意は、「どっこいしょ」というような掛け声のようなものであり、意図的な行為はそのような決意を必要とするものではない。
  例えば、運転中に前の車が急停止するのを見たときにとっさにブレーキを踏むのは意図的な行動であるが、そこにあるのは前の車の急停止という知覚とともに、ブレーキを踏むという行動が行われる。このように、我々の行為は、行為の動機となるような文脈や背景が徐々に形成され、その文脈の中における自分の内外の様々な事柄がきっかけとなって、ある行為が生じるのである
  現代の哲学では、意図的な行為と意図的でない行動を区別するのに、古典理論とは全く異なる基準が提唱されており、例えばアンスコムは、意図的な行為とは、「何故?という問いに対して、理由や目的をもって答えられる行為」だとしている。すなわち、意図とは、認識に関わることであり、自分の行動がどのような文脈において行われ、それが周囲の世界にどのような影響を及ぼすかを知りながら行うということが、「意図的」ということである。「意志」とは、行為に先立つ決意のことではなく、ある目的を達成するように(または、理由に沿うように)自分の行動を調整することである。
  それでは、自由はどこにあるのだろうか。自由があるとは、「決意によって身体的行動を引起す」ことではなく、「ある仕方とは別の仕方で行動できるという」ことである。私たちの意思決定は特定の時点になされるものではなく、時間的・空間的に幅のある、行為の文脈の中に自由がある。そして行為の選択は、知覚と認識により、入手できる情報を取得するという探索的の中で行われる。
  自分の人生をより良く生きることを目指したものであれば、行為の選択も、目的の選択も、本質において異なるものではない。

前の車が急停止するのを見たときにとっさにブレーキを踏むのは「意図的な行動」というよりは「反射的行動ではないのか、と思われる方もあるのではないかと思う。しかし、日常における我々の行動の大半は、時間の経過の中で次々に与えられる状況から、明確な決意を経ることなく、そのまま行動が生まれている。そしてそれらの行動は、反射的に行われるか否かに関わらず、自分なりの目的や理由に従うものであり、自分の「意図する」ところの行動である点において異なるところはない。

また、日常の行動の大半を占めるこのような行動に関して、自分の意図から除外して考えるのは、片手落ちであろう。また、これらの行動を含めた「自由」でなければ現実的な自由とは言えないであろう。

自由意志の発現は、ある行為を自発的に始めるという発意の形式ではなく、選択という形式によるのではないだろうか。選択に当たっては、「何もしない」を含めて、2以上の選択肢があることが前提であり、選択肢が2以上ある中で、最も単純な形では、ある行為をするかしないか、いずれでも選択できることが自由ということではないだろうか。「選びたくない選択肢ばかりの時に自由はあるのか」との疑問もあるかもしれないが、私はそのような場合も低いレベルの自由はあると思う。そこでは、意識的にその行為を発意するかどうかは問題ではない。また、行為をするかしないかが、意識的に選択されるか、無意識的に選択されるかさえも問題ではない。その選択が殆ど無意識に行われたとしても、その行為が明確に自分の意に反するものでない限り、そこには自由がある。その無意識の選択でさえ、自由意志に基づくものということができる。

日常の行動を考えてもわかるように、どこまで意識的行動で、どこからが無意識的行動かを区別することは難しい。意識的行動か無意識的行動かは、程度の問題である。そして日常の行動の殆どは、むしろ無意識に行われているのである。無意識的行動に自由がなく、意識的行動にのみ自由があるというわけではない。