「人間の頭で勝手に作られた数学的理論が、自然科学をはじめ現実の世界の様々な分野において威力を発揮するのはなぜだろうか?」これは多くの哲学者が抱いた疑問です。カントもそのひとりです。

「これまで人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みはこの前提の下ではすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくいかないかどうかを、一度試みてみたらどうだろう。」ということで、カントは、認識論にコペルニクス的転回をもたらしたと主張しています。

たしかに、数学の前提は人為的に定めたものです。しかし、様々な現実界の現象に対して、人間が在り合わせの数学を適当にあてはめて何でもうまく行くわけではありません。したがって、「対象が私たちの認識に従う」というのは、やはり適切ではないでしょう。

しかし、なぜ自然科学の認識において、そのような人間の頭の中で創られた数学が有効になるのでしょうか。私は、この問いに対する答えは、カントが指摘したように、人間の認識形式が関わっていると思います。

人間は世界のすべてを、あるがままに把握し理解することはできません。人間が何かを認識するときは、必ず、世界の一部を、ある側面からその対象を切り取ってきて認識するのです。「分かる」という言葉が「分ける」ことから来るように、理解することと「分ける」こととは、密接な関係を持っているのです。

部屋の中を眺めるにしても、ありのままに眺めるのではなく、机、イス、パソコン、その他もろもろの個別の物を認識して、それらの物の集まりとして眺めるわけです。例えばテーブルの上のリンゴを知覚しているときは、背景の中からリンゴだけを分離して、把握しています。自らの知識や経験や枠組みを駆使して、リンゴを積極的に、背景から分離して、リンゴとして把握しているのです。ありのままのリンゴそのものを認識するのではなく、「一般的なリンゴ」という自分の知識や枠組みを放出して当てはめているということができます。偽物のリンゴを本物と勘違いしたりするのも、そこから来ています。

科学的な認識において、数学理論の適用はどのように行われているでしょうか。ニュートンがその古典力学を打ち立てたとき、その研究対象は「物体」でした。世界にあるすべてのものをあるがままに理解したわけではありません。そこでの研究対象は力学的物体であり、ここにあるボール、あなたが持っているボールなど個別のボールではありません。すべてのものが、力学物体として抽象化されたモデルが対象です。またそこでの空間は、質量により歪む現実の時空空間ではなく、純粋な三次元空間と均質な時間です。これらは、現実にある様々な物の一面を反映したものではありますが、人間の頭の中で作り上げられたものでしかありません。

つまり、古典力学の世界は、頭の中で創られた架空の「物体」モデルに関して、架空の古典的時空空間モデルにおける運動を想定して数学を適用しているのです。この抽象的モデルに対して、頭の中で創られた数学がぴったりと当てはまっても少しも不思議ではありません。

そして、既成の数学理論でうまく説明できない場合は、さらに複雑なモデルを想定して、その研究対象にふさわしい新たな数学理論を作り上げてきたのです。その意味では、やはり、私たちの認識が対象に従わなければならないのです。ニュートン力学に使われる微分や積分もそのような需要に応えて作られたものです。相対性理論や量子力学などに関しても、古典力学のモデルよりも、さらに複雑な時空空間が想定されていますが、頭の中で創られた抽象的モデルに対して、頭の中で創られた数学を当てはめているという点では同じです。

ですから、我々の投げかけるカテゴリに基づいて認識しているというカントの主張は、科学的認識に関しても、一面では正しいということができます。しかし、その究極的な尺度は、現実世界の説明にどれだけ適合しているかにあるのであり、「対象が私たちの認識に従う」とは言えないでしょう。現実の理論として機能するかどうかは、その抽象的なモデルが、現実の世界の一面をどこまで反映しているかによるのです。