時代は客観的真理の存在を否定する流れが主流のような気がする。

客観的真理を知ることはできないし、そのようなものが存在するかどうかでさえも分からないという。彼らは更に次のように言う。

「真理が、『物事のありかたと一致している認識』であるならば、ある認識が真理であるかどうか知るためには、物事のありかたそのものを知らなければならない。物事のありかたそのものを知ろうとしても、それは認識にすぎないから、結局2つの認識を比較することにすぎず、堂々巡りとなり、結局真理かどうかを知ることはできない。」

しかし、例えば科学的理論が正しいかどうかの検証がどのように行われているかどうかを考えて見ても、そのような主張が見当はずれであることがわかるだろう。

例えば、ある理論が正しいかどうかの検証は、その理論を仮説として、未知の状況における結果を予測し、その予測が的中するかどうか、という形で行われる。そして、その予測が様々な状況において的中するならば、その理論は正しい可能性が高いということになる。

そこでは、認識同士を比較するのではなく、仮説を現実に適用し、現実に適合しているかの答えを、現実から聞き出しているのである。現実は、「仮説のどこをどう直せ」というような返事はしてくれない。だだ、予測がうまくいけば、我々の側で、現実が「Yes」と返事してくれたと解釈し、うまくいかなければ「No」と返事してくれたと解釈するだけのことである。

「うまくいけば真理」で「うまくいかなければ非真理」ならば、客観的真理を認めないプラグマティズムとどう違うのかと言う人がいるかも知れない。しかし、一度や二度ならば、まぐれで予測が的中することがあるかもしれないが、誤った理論による予測が的中し続けることは確率的にあり得ない。

「客観的真理を知ること」は、神の立場に身を置く不遜なものであるかのように言う人もいるが、むしろ、現実が出してくれる答えに、謙虚に耳を傾けることだと、私は思う。現実は気まぐれではない。偶然的要素が関与することにより、そのように見えることがあるが、その背後には、常に一定の法則性が貫かれている。

相対主義は、独善に陥らないという意味では、良い面もあるが、根無し草のようにしっかりと大地に立つことができない。客観的真理の存在を否定するということは、そういうことではないだろうか。