人間にとって、「死」が絶対的な不幸であり、死が厳然とある限り、幸福な人生など絶対に存在しないという不幸論者がいる。
自分の人生は幸福であったと死んでいく人々も多いと思うが、不幸論者にとっては、彼らは人生の絶対的不幸を知らない愚か者ということになるのだろうか。
しかし、自分の人生を肯定的に見ることのできない者が、果たして賢者なのだろうか。そもそも「死」が絶対的な不幸であると考えるということは、不老不死でこそ初めて幸福があり得るということになる。それでは不老不死であれば、どのような幸福があるというのだろうか。
永遠に生きることができれば、なぜ幸福といえるのだろう。東洋の哲学には、輪廻転生しながら生き続けること自体を苦とし、輪廻からの解脱こそ幸福とする考えもある。
どのような状況でも、それよりも良い状態と比較すれば不幸であろうし、それよりも悪い状況と比較すれば幸福であろう。
不老不死などという荒唐無稽な状況と比較して、幸福な人生など絶対に存在しないなどと、無い物ねだりの駄々っ子みたいなことを言うのが、賢者の哲学なのだろうか。
私には、自分に与えられた人生を、自分なりに精一杯いきることを、幸福とすることに勝る賢者の哲学はないように思える。
自分の人生は幸福であったと死んでいく人々も多いと思うが、不幸論者にとっては、彼らは人生の絶対的不幸を知らない愚か者ということになるのだろうか。
しかし、自分の人生を肯定的に見ることのできない者が、果たして賢者なのだろうか。そもそも「死」が絶対的な不幸であると考えるということは、不老不死でこそ初めて幸福があり得るということになる。それでは不老不死であれば、どのような幸福があるというのだろうか。
永遠に生きることができれば、なぜ幸福といえるのだろう。東洋の哲学には、輪廻転生しながら生き続けること自体を苦とし、輪廻からの解脱こそ幸福とする考えもある。
どのような状況でも、それよりも良い状態と比較すれば不幸であろうし、それよりも悪い状況と比較すれば幸福であろう。
不老不死などという荒唐無稽な状況と比較して、幸福な人生など絶対に存在しないなどと、無い物ねだりの駄々っ子みたいなことを言うのが、賢者の哲学なのだろうか。
私には、自分に与えられた人生を、自分なりに精一杯いきることを、幸福とすることに勝る賢者の哲学はないように思える。