中島義道氏の「哲学の教科書」を読んだ。私には、中島氏が哲学を余計に分かりにくいものにしようとしているように思われた。「まえがき」において彼の意図が述べられている。少し長いが引用させていただく。

「・・・私は中学生のころ跳び箱なんて恐ろしく、まして「正しく」跳べないのに「跳び箱の跳び方」というペーパーテストは「教科書」を丸暗記していつもできていました。すごくおかしいと思いませんか?こと哲学に関しては、「教科書」はこうした「跳び箱の跳び方」のようなものでは困る。跳び箱の跳び方が頭でわかるのではなく、本当に跳び箱が跳べるようにならなければならないのです。」

中島氏が言っていることはもっともである。しかし、中島氏は、跳び箱を跳ぶ練習をしないで跳べる「教科書」のようになることを目指そうというのだろうか。世の中にはゴルフにせよ、囲碁将棋にせよ、「教科書」はたくさんある。しかし、ゴルフの練習をしない人のための「ゴルフの教科書」や、囲碁を練習しない人のための「囲碁の教科書」などはあるまい。自分にとって跳び箱なんて恐ろしく跳べないと思い、それ以上の上達を望まない者にとって「跳び箱の跳び方」は役に立たないかも知れないが、何度も何度も跳び箱を跳ぼうしている者には、「跳び箱の跳び方」の意義が少しずつ分かってくるだろう。

私には教科書の「跳び箱の跳び方」が問題なのではなく、丸暗記してペーパーテストで良い点をとりながら、「跳び箱の跳び方」を実践してみようとしない姿勢に問題があるように思われる。

巷の哲学の教科書に問題があるならば、それは、ソクラテスがああ言ったに始まり、誰それがこう言ったというようなことばかりで、それでは、自分が生きると言うこととどう関わるかを理解させてくれるようになっていないことではないだろうか。「哲学の教科書」が人生を生きるための教科書ならば、自分の人生に適用できるような形で哲学的思考法を提供してくれるようなものである必要があるのではないだろうか。

先の文に続けて中島氏は次のように続けている。

「さてそれにはどんな条件が必要でしょうか。ここで、ほとんどの「教科書」に書かれていないことを二つだけ挙げておきましょう。まず、哲学とは純粋な意味では学問ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが、不可欠の要素でなくてはならない。自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが不可欠の要素でなければならない。客観的な哲学入門書こそ、一番見当違いなのです。顰蹙をかうのを覚悟して、私が本書で自分の哲学的少年時代・青春時代の一部を語ったのはこうした理由によります。次に、世の哲学入門書は、哲学をあまりに無害なもの・品行方正なもの・立派なものとして語りすぎる。私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです。人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らかの意味があるか、どんなに一生懸命生きても私は結局死んでしまう・・・という呟きをまっこうから受けとめるものです。こうした問いに苦しめられ、ぐるぐる引き回され頭のしびれるほど考え抜いた者が、アリジゴクのようにこの修羅場に他人をひきずり込もうというまことに悪趣味な書こそ、本物の哲学の「教科書」だと思っております。

と書きますと、たいそうなものであるかのように思われますが、そうではなく、このくらいのことは仲間の哲学(研究)者は誰でも考えていること。でも、みなさん謙虚で羞恥心があり紳士的であって、いつまでも書いてくれないものですから、私があえてエイと書いてしまっただけのことです。」

と締めくくっている。「まえがき」の3分の2以上を引用してしまった。中島氏は正直な方だと思うが、もし言っていることが事実ならば、日本の哲学の現状は暗澹たるものに思える。

世の哲学入門書が問題であるのは、「哲学をあまりに無害なもの・品行方正なもの・立派なものとして語りすぎる」からではなく、「私を含む一般人」(以下単に「一般人」という)の人生の視点を抜きにして、また、現実世界に生きることを無視した議論のみに終始しているからではないだろうか。

第7章の「なぜ哲学書はむずかしいのか」で、カントの「純粋理性批判」からの一文を解説しており、この解説は見事であり、私も賞賛を惜しまない。そして、カントの「純粋理性批判」の内容を味わうことは、初心者に本物の哲学の一角を覘かせる意義はあるかも知れない。しかし、一般人としては、その後で「So, what? (だからどうだと言うのですか?)」と問わざるを得ない。

人々が哲学に関心を持つのは、知的好奇心からということもあるだろうが、自分の人生をまじめに考えて、よりよく生きるとはどういうことなのかを知りたいというところではないだろうか。「どんなに一生懸命生きても私は結局死んでしまう」ことを知らない者はいないだろう。一般人が「こうした問いに苦しめられ、ぐるぐる引き回され頭のしびれるほど考え抜いた者」に期待することは、「アリジゴクのようにこの修羅場に他人をひきずり込もうと」することではなく、そこから得た先人の知恵の一端を教えてくれることではないだろうか。

「病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつもの」を期待する人もいるかも知れないが、私は私の人生に資する「健全な」ものを得たいと思う。人生には、それでなくても悩みが尽きない。「アリジゴクのようにこの修羅場に」引きずり込まれて、もっと悩みたいと願うほどのヒマ人は、そんなにはいないだろう。人生における悩みとその解決に哲学がどのように関われるのか、それを一般人は知りたいのではなかろうか。