人類が滅亡すれば、すべては無に帰すのだろうか。この問いは、人が死ぬとその人の人生は無に帰すのか、という問いに似ている。
ソクラテス、アリストテレス、カント、ヘーゲル、これら哲学者はすべて死んでしまっているが、彼らの残した思想は、現在も語り継がれている。ここでは、彼らの思想を語り継ぐ社会が存在している。しかし、地球が滅び人類が滅び、さらには、宇宙さえも終わりの時がくるならば、語り継ぐ人々も社会もないことになる。
しかし、なくなることでその意義が失われるわけではない。存在意義は、それを評価する人間が存在してこそ成り立つものであることはたしかである。しかし、気の遠くなるような未来に評価する人々が存在しなくなることにより、現在の社会の存在意義が失われるものだろうか。
自分の人生の意義が、自分がいつかは死ぬことにより、失われるものではないように、現在の社会の存在意義は、気の遠くなるような未来に人類社会が滅亡する可能性によって失われるものではないだろう。自分の人生の意義とは、第一義的に自分にとっての意義であるように、現代社会の存在意義は、第一義的には自分を含む現代社会を構成する人々にとっての存在意義であるからだ。
人生において自分がいつか必ず死ぬという現実に直面して、重要なことは、死ぬことと無価値を結びつけることではない。自分が生きること、ある時代を生きたということとに喜びを見出すことだろう。人が死ぬように、社会が滅亡する時期が、来ることも必然なのかも知れない。ビッグバンが本当に宇宙の始まりであるならば、宇宙の終わりがないことの方が不思議であろう。
自分を離れた自分の人生の意義や、社会を構成する人々を離れての社会の存在意義があるかのように考えることは、人間抜きにして「鉛筆」や「衣類」の客観的効用が存在するかのように考えるようなものだ。
ダイヤモンドが炭素からできているという現実が明らかになったとしても、ダイヤモンドはその輝きを失うことはない。人間がいつか死ぬという現実や、宇宙そのものにも終わりがあるかも知れない可能性のために、自分の人生や、人類社会が、あたかも無価値であるかのように考えるならば、その人はそもそも価値が何かを殆ど理解していないのではないだろうか。
社会に貢献した人々の功績は、その人がいなくなっても、さらにはそれを評価する人さえもいなくなったとしても、無に帰すわけではない。同様に、社会に害をなした人々がいたという事実は、その人々がいなくなっても、またそのことを知る人々さえいなくなっても、無に帰すことはない。
ソクラテス、アリストテレス、カント、ヘーゲル、これら哲学者はすべて死んでしまっているが、彼らの残した思想は、現在も語り継がれている。ここでは、彼らの思想を語り継ぐ社会が存在している。しかし、地球が滅び人類が滅び、さらには、宇宙さえも終わりの時がくるならば、語り継ぐ人々も社会もないことになる。
しかし、なくなることでその意義が失われるわけではない。存在意義は、それを評価する人間が存在してこそ成り立つものであることはたしかである。しかし、気の遠くなるような未来に評価する人々が存在しなくなることにより、現在の社会の存在意義が失われるものだろうか。
自分の人生の意義が、自分がいつかは死ぬことにより、失われるものではないように、現在の社会の存在意義は、気の遠くなるような未来に人類社会が滅亡する可能性によって失われるものではないだろう。自分の人生の意義とは、第一義的に自分にとっての意義であるように、現代社会の存在意義は、第一義的には自分を含む現代社会を構成する人々にとっての存在意義であるからだ。
人生において自分がいつか必ず死ぬという現実に直面して、重要なことは、死ぬことと無価値を結びつけることではない。自分が生きること、ある時代を生きたということとに喜びを見出すことだろう。人が死ぬように、社会が滅亡する時期が、来ることも必然なのかも知れない。ビッグバンが本当に宇宙の始まりであるならば、宇宙の終わりがないことの方が不思議であろう。
自分を離れた自分の人生の意義や、社会を構成する人々を離れての社会の存在意義があるかのように考えることは、人間抜きにして「鉛筆」や「衣類」の客観的効用が存在するかのように考えるようなものだ。
ダイヤモンドが炭素からできているという現実が明らかになったとしても、ダイヤモンドはその輝きを失うことはない。人間がいつか死ぬという現実や、宇宙そのものにも終わりがあるかも知れない可能性のために、自分の人生や、人類社会が、あたかも無価値であるかのように考えるならば、その人はそもそも価値が何かを殆ど理解していないのではないだろうか。
社会に貢献した人々の功績は、その人がいなくなっても、さらにはそれを評価する人さえもいなくなったとしても、無に帰すわけではない。同様に、社会に害をなした人々がいたという事実は、その人々がいなくなっても、またそのことを知る人々さえいなくなっても、無に帰すことはない。