● 努力への反感
若者は「努力」という言葉が嫌いなようです。私の好きな「前向きに生きる」という言葉さえ、「前向きに生きるといいう言い方も好きじゃない」というようなコメントをもらうことがあります。若者といっても、30代はもちろん40代の人々を含んでいるとするならば、「若者」というよりも「社会そのもの」と言うべきなのかもしれません。
このような若者を見て、それ以上の世代の人々は「今時の若い者は」とため息をつきます。しかし、若者が置かれてきた背景を考えれば、無理もないところもありますし、そのような状況の中で「努力」というものに反感を抱くことは、健全な一面もあると言えるのではないでしょうか。それは、若者にとって、物心がついて以来、「努力」とは受験戦争や就職戦争に勝つための「努力」であったからあり、常に周りの仲間を含め、他人を敵としてとらえる「努力」でしかなかったわけです。
受験勉強の中で、学問の面白さを知った人もいるかも知れませんが、受験勉強においては、その面白さを味わう余裕を与えてくれません。数学が面白くなっても、英語も物理も歴史も勉強しなければならないからです。かといって、教える側の立場から見ると、総合的人間形成を考えれば、中高校生に自分が面白いと思った科目だけを勉強すればよいとは言えないことも理解できます。
● 努力の種類
いずれにせよ、進学や就職のための受験勉強以外の努力は、「努力」とは認められず、すべて否定されてきたのではなかったでしょうか。
ですから、「努力」に対する反感は、そのような「努力」と努力一般が区別されずに、反射的に反感を生み出しているのではないでしょうか。
昔の小説を見ても戦前から受験戦争がありましたが、一部のエリート家庭にみられた現象に過ぎませんでした。戦後の高度成長時代を生きた世代にとっても、社会全体の現象ではなかったでしょう。高度成長時代後に受験戦争が、社会の大半の若者を巻きこむようになったのではないでしょうか。
ある日テレビを見ていますと、水木しげるの大ファンで妖怪評論家と称する人物が出ていました。当初の私の印象は、物好きな人もいるものだと思う程度で、正直なところあまり肯定的には見ていませんでした。しかし、後で考えてみると、物好きで始めたにしろ、自ら評論家を名乗るほどの知識を有することは、それなりに評価されるべきだと思い直しました。
さらにもう少し突っ込んで、宗教との関わりや、文化としての視点を加えれば、学問としても成り立ち得るものです。そうなると単なる物好きを超えるものと言えるでしょう。学問というものはもともと物好きな好奇心によって発展させられるものですし、また、そのような物好きな人々により、学問の裾野が広がるのではないかと思います。
● 自分の適性の把握と自分自身の価値観
好奇心には、さまざまなものがあり、もちろん単なるのぞき趣味のような好奇心というべきものも、誰しも備えています。しかし、愚劣な好奇心しか備えていない人はいないでしょう。 自分の持つ愚劣でない好奇心を自覚することが、自分の適性を理解することですし、その好奇心を満足させることが、努力であるならば、努力を嫌う必要もないでしょうし、そのような生き方が、前向きに生きることであるならば、「前向きに生きる」ことを嫌う理由もないのではないでしょうか。
ただし、そのような努力や前向きの生き方は、必ずしも経済的に豊かな生活と結びつかない可能性があります。しかし、人生において、妥協のない人生は、あり得ません。自分自身の考えをしっかりと持つことが必要であり、自分自身の価値観を持つことが必要です。自分自身の考えや価値観というのは、自分で勝手に決めればよいというものではありません。そのために哲学が必要なのではないでしょうか。
若者は「努力」という言葉が嫌いなようです。私の好きな「前向きに生きる」という言葉さえ、「前向きに生きるといいう言い方も好きじゃない」というようなコメントをもらうことがあります。若者といっても、30代はもちろん40代の人々を含んでいるとするならば、「若者」というよりも「社会そのもの」と言うべきなのかもしれません。
このような若者を見て、それ以上の世代の人々は「今時の若い者は」とため息をつきます。しかし、若者が置かれてきた背景を考えれば、無理もないところもありますし、そのような状況の中で「努力」というものに反感を抱くことは、健全な一面もあると言えるのではないでしょうか。それは、若者にとって、物心がついて以来、「努力」とは受験戦争や就職戦争に勝つための「努力」であったからあり、常に周りの仲間を含め、他人を敵としてとらえる「努力」でしかなかったわけです。
受験勉強の中で、学問の面白さを知った人もいるかも知れませんが、受験勉強においては、その面白さを味わう余裕を与えてくれません。数学が面白くなっても、英語も物理も歴史も勉強しなければならないからです。かといって、教える側の立場から見ると、総合的人間形成を考えれば、中高校生に自分が面白いと思った科目だけを勉強すればよいとは言えないことも理解できます。
● 努力の種類
いずれにせよ、進学や就職のための受験勉強以外の努力は、「努力」とは認められず、すべて否定されてきたのではなかったでしょうか。
ですから、「努力」に対する反感は、そのような「努力」と努力一般が区別されずに、反射的に反感を生み出しているのではないでしょうか。
昔の小説を見ても戦前から受験戦争がありましたが、一部のエリート家庭にみられた現象に過ぎませんでした。戦後の高度成長時代を生きた世代にとっても、社会全体の現象ではなかったでしょう。高度成長時代後に受験戦争が、社会の大半の若者を巻きこむようになったのではないでしょうか。
ある日テレビを見ていますと、水木しげるの大ファンで妖怪評論家と称する人物が出ていました。当初の私の印象は、物好きな人もいるものだと思う程度で、正直なところあまり肯定的には見ていませんでした。しかし、後で考えてみると、物好きで始めたにしろ、自ら評論家を名乗るほどの知識を有することは、それなりに評価されるべきだと思い直しました。
さらにもう少し突っ込んで、宗教との関わりや、文化としての視点を加えれば、学問としても成り立ち得るものです。そうなると単なる物好きを超えるものと言えるでしょう。学問というものはもともと物好きな好奇心によって発展させられるものですし、また、そのような物好きな人々により、学問の裾野が広がるのではないかと思います。
● 自分の適性の把握と自分自身の価値観
好奇心には、さまざまなものがあり、もちろん単なるのぞき趣味のような好奇心というべきものも、誰しも備えています。しかし、愚劣な好奇心しか備えていない人はいないでしょう。 自分の持つ愚劣でない好奇心を自覚することが、自分の適性を理解することですし、その好奇心を満足させることが、努力であるならば、努力を嫌う必要もないでしょうし、そのような生き方が、前向きに生きることであるならば、「前向きに生きる」ことを嫌う理由もないのではないでしょうか。
ただし、そのような努力や前向きの生き方は、必ずしも経済的に豊かな生活と結びつかない可能性があります。しかし、人生において、妥協のない人生は、あり得ません。自分自身の考えをしっかりと持つことが必要であり、自分自身の価値観を持つことが必要です。自分自身の考えや価値観というのは、自分で勝手に決めればよいというものではありません。そのために哲学が必要なのではないでしょうか。