●目的論的証明
神の「目的論的証明」とは、次のようなものである。
【世界の事物は、壮大な秩序と組織原理を持っているとともに、それらはきわめて精巧にできている。天体の運動を見れば、その規則性には驚くべきものがある。植物にしても動物にしても信じ難い精巧さで造られている。】
【このような精巧な世界と自然の仕組みは、驚異的な精密さでできており、人間の思考力や技術を遥かに越えている。世界に、このような精巧な仕組みが存在するのは、「人知を超越した者」の設計がなければ、説明がつかない。すなわち、自然界は、その精巧な目的的な存在の仕方が、まさに神の存在を証明している。】
このような議論に対しては、つぎのような反論が考えられる。
前記の議論では、その対照として、秩序や規則性のない宇宙や自然界というようなものを想定しているが、そのような存在そのものが成り立ち得るかどうかが、問題である。
例えば、万有引力の法則が成立しない宇宙が存在しえるのかどうか。
宇宙は存在すべく存在しているにすぎず、その存在は、現実に存在する形をとらざるを得ない。
●本体論的証明
神の「本体論的証明」としては、11世紀の神学者アンセルムスによる神の存在証明が有名である。この証明では、「存在する」ことを、「属性」として捉え、その概要は次のようなものである。
【神はそれ以上偉大なものがないような存在である。一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、現実に存在する方が、より偉大である。もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、現実に存在しないのであれば、それは「それ以上偉大なものがない」という定義に反する。したがって、神は人間の理解の内にあるだけではなく、現実に存在する。】
このような議論に対しては、つぎのような反論があり得るだろう。
勝手に「存在」を属性とする定義を作って、そのものの存在が証明できるのであれば、「存在する100本足の人間」であろうが何であろうが、「存在する」という属性を追加したものは、存在することになる。現実に存在するかどうかは、事実の問題であり、事実により初めて証明できるのであり、論理で証明できない。
●宇宙論的証明
「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明は、つぎのようなものである。
【すべての出来事には、必ず原因があり結果がある。宇宙には、物体があり、運動している。物体が運動するには、何か原因がなければならない。そこで原因を考えると、この原因となった出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、因果関係は、より根本的な原因へとさかのぼることになる。しかし、宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限にさかのぼるというのはおかしい。したがって、一切の運動には、最初の根源的原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源的原因よりも先にはさかのぼらない。この根源的原因こそ「神」である。また宇宙が無限であるなら、そのような宇宙は、超越的であり、もし無限の宇宙があるなら、それこそ神が存在する証拠である。】
このような議論に対しては、つぎのような反論が考えられる。
因果関係というのは、認識のカテゴリであり、存在そのものは、あるがままに存在しているだけであり、因果関係とはそのメカニズムを理解するためのカテゴリとして抽象されたものである。最初の根源的原因という概念自体観念的に作られた抽象的概念にすぎない。抽象的な概念において、無限がでてくるのは、通常のことである。
数学の自然数、有理数、無理数なども、そのような例であろう。「飛ぶ矢は飛ばない」「アキレスは亀に追いつけない」というパラドックスも、抽象的な思索からの結論である。矢が飛ぶかどうか、アキレスが亀に追いつけるかどうかは、事実に関する命題であり、これらは、事実によって証明されなければならないし、それと矛盾する結論となるなら、その理論がおかしいのである。
●どのような証明が必要か
いずれの証明も、神が現実に存在する証明にはなっていない。神が現実に存在するかどうかは、事実の問題であり、事実により初めて証明できるのであり、論理で証明できない。自然による災害なども自然法則と矛盾しない現象であるならば、神の存在が証明されたことにはならない。自然が神であるならば、それを「自然」と呼べばよいのであり、「神」と呼ぶ必要はないだろう。明らかに自然法則に反する現象が起こってこそ、自然を超越した神の存在証明となるのだろう。そのような証明で、検証に耐えるものを、私は知らない。
神の「目的論的証明」とは、次のようなものである。
【世界の事物は、壮大な秩序と組織原理を持っているとともに、それらはきわめて精巧にできている。天体の運動を見れば、その規則性には驚くべきものがある。植物にしても動物にしても信じ難い精巧さで造られている。】
【このような精巧な世界と自然の仕組みは、驚異的な精密さでできており、人間の思考力や技術を遥かに越えている。世界に、このような精巧な仕組みが存在するのは、「人知を超越した者」の設計がなければ、説明がつかない。すなわち、自然界は、その精巧な目的的な存在の仕方が、まさに神の存在を証明している。】
このような議論に対しては、つぎのような反論が考えられる。
前記の議論では、その対照として、秩序や規則性のない宇宙や自然界というようなものを想定しているが、そのような存在そのものが成り立ち得るかどうかが、問題である。
例えば、万有引力の法則が成立しない宇宙が存在しえるのかどうか。
宇宙は存在すべく存在しているにすぎず、その存在は、現実に存在する形をとらざるを得ない。
●本体論的証明
神の「本体論的証明」としては、11世紀の神学者アンセルムスによる神の存在証明が有名である。この証明では、「存在する」ことを、「属性」として捉え、その概要は次のようなものである。
【神はそれ以上偉大なものがないような存在である。一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、現実に存在する方が、より偉大である。もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、現実に存在しないのであれば、それは「それ以上偉大なものがない」という定義に反する。したがって、神は人間の理解の内にあるだけではなく、現実に存在する。】
このような議論に対しては、つぎのような反論があり得るだろう。
勝手に「存在」を属性とする定義を作って、そのものの存在が証明できるのであれば、「存在する100本足の人間」であろうが何であろうが、「存在する」という属性を追加したものは、存在することになる。現実に存在するかどうかは、事実の問題であり、事実により初めて証明できるのであり、論理で証明できない。
●宇宙論的証明
「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明は、つぎのようなものである。
【すべての出来事には、必ず原因があり結果がある。宇宙には、物体があり、運動している。物体が運動するには、何か原因がなければならない。そこで原因を考えると、この原因となった出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、因果関係は、より根本的な原因へとさかのぼることになる。しかし、宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限にさかのぼるというのはおかしい。したがって、一切の運動には、最初の根源的原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源的原因よりも先にはさかのぼらない。この根源的原因こそ「神」である。また宇宙が無限であるなら、そのような宇宙は、超越的であり、もし無限の宇宙があるなら、それこそ神が存在する証拠である。】
このような議論に対しては、つぎのような反論が考えられる。
因果関係というのは、認識のカテゴリであり、存在そのものは、あるがままに存在しているだけであり、因果関係とはそのメカニズムを理解するためのカテゴリとして抽象されたものである。最初の根源的原因という概念自体観念的に作られた抽象的概念にすぎない。抽象的な概念において、無限がでてくるのは、通常のことである。
数学の自然数、有理数、無理数なども、そのような例であろう。「飛ぶ矢は飛ばない」「アキレスは亀に追いつけない」というパラドックスも、抽象的な思索からの結論である。矢が飛ぶかどうか、アキレスが亀に追いつけるかどうかは、事実に関する命題であり、これらは、事実によって証明されなければならないし、それと矛盾する結論となるなら、その理論がおかしいのである。
●どのような証明が必要か
いずれの証明も、神が現実に存在する証明にはなっていない。神が現実に存在するかどうかは、事実の問題であり、事実により初めて証明できるのであり、論理で証明できない。自然による災害なども自然法則と矛盾しない現象であるならば、神の存在が証明されたことにはならない。自然が神であるならば、それを「自然」と呼べばよいのであり、「神」と呼ぶ必要はないだろう。明らかに自然法則に反する現象が起こってこそ、自然を超越した神の存在証明となるのだろう。そのような証明で、検証に耐えるものを、私は知らない。