世界観とは、「世界をどのようなものとして見るか」ということで、ここでの「世界」とは地球上の世界に限らず、宇宙でもあり、存在の全てです。
人生観とは、「人生をどのようなものとして見て、生きていくか」ということです。したがって焦点は生き方にあります。人生観は健全な世界観に基づいて形成されるべきものだと思います。
(1)世界が神の意のままに動いているという世界観をもつならば、神の意志に沿うが道徳であるということになり、我々にとって必要なのは、神の意志を知ることか、神に祈ることだということになります。また神を冒涜するものを懲らしめることは神の意志にそうことになります。世界の紛争の多くは、このような世界観により起こされているように思います。最近の宗教はそのあたりは曖昧にして、他の宗教との協調を説きますが、歴史的をみれば、元来そのようなものであったことが分かります。
(2)また、客観的世界などというものはなく、世界は自分の感覚からのみなっているという世界観を持つならば、他人などというものも、自分の感覚に過ぎないことになります。したがって、他人を思いやることなど無意味ということになります。多くの犯罪者の身勝手な主張は、このような考えの行き着く先のように思われます。
(3)世界は、自然法則に機械的に従う物質の必然的運動の集合であり、自由意志などというものは幻であるという世界観に立つならば、努力など無意味ということになります。また、どのような反道徳的行為も物質の必然的運動の結果に過ぎず、必然的なものであるということになります。
(4)常識的な世界観に立つならば、客観的世界は存在し、自分と同じような立場の他人がいて、社会があります。人間には自由意志があり、努力により自分の人生を切り開くこともできます。そこでの道徳は、神の意志ではなく、他人との協調です。
以上を比較すると、私には(4)がもっとも優れたものだと思います。常識は素朴実在論として、哲学的に未発達な段階として軽視する考えがありますが、常識を洗練させたものこそ、人間の認識の最後のよりどころであり、また目標としての価値を見出す源ではないかと思います。
ちなみに前記の(1)は客観的観念論、(2)は主観的観念論、(3)は機械的唯物論、(4)は弁証法的唯物論ということができます。
人生観とは、「人生をどのようなものとして見て、生きていくか」ということです。したがって焦点は生き方にあります。人生観は健全な世界観に基づいて形成されるべきものだと思います。
(1)世界が神の意のままに動いているという世界観をもつならば、神の意志に沿うが道徳であるということになり、我々にとって必要なのは、神の意志を知ることか、神に祈ることだということになります。また神を冒涜するものを懲らしめることは神の意志にそうことになります。世界の紛争の多くは、このような世界観により起こされているように思います。最近の宗教はそのあたりは曖昧にして、他の宗教との協調を説きますが、歴史的をみれば、元来そのようなものであったことが分かります。
(2)また、客観的世界などというものはなく、世界は自分の感覚からのみなっているという世界観を持つならば、他人などというものも、自分の感覚に過ぎないことになります。したがって、他人を思いやることなど無意味ということになります。多くの犯罪者の身勝手な主張は、このような考えの行き着く先のように思われます。
(3)世界は、自然法則に機械的に従う物質の必然的運動の集合であり、自由意志などというものは幻であるという世界観に立つならば、努力など無意味ということになります。また、どのような反道徳的行為も物質の必然的運動の結果に過ぎず、必然的なものであるということになります。
(4)常識的な世界観に立つならば、客観的世界は存在し、自分と同じような立場の他人がいて、社会があります。人間には自由意志があり、努力により自分の人生を切り開くこともできます。そこでの道徳は、神の意志ではなく、他人との協調です。
以上を比較すると、私には(4)がもっとも優れたものだと思います。常識は素朴実在論として、哲学的に未発達な段階として軽視する考えがありますが、常識を洗練させたものこそ、人間の認識の最後のよりどころであり、また目標としての価値を見出す源ではないかと思います。
ちなみに前記の(1)は客観的観念論、(2)は主観的観念論、(3)は機械的唯物論、(4)は弁証法的唯物論ということができます。