「14 歳からの哲学」の中で、池田晶子氏は次のように書いている。
【「自分がない」ということを考えようとすると、「自分がある」ことに気がつくことになってしまう。自分について考えているそこには、必ず考えている自分があるからだ。「自分がない」と考えているそこにすら、考えている自分があるからだ。自分が考えるのである限り、自分がないということは、絶対考えられないことになっているんだ。すると、人は「自分がなくなる」という言い方で何を言っていたことになるのだろう。自分がないということは絶対に考えられないのに、なぜ人は自分は死ぬとおもっているのだろうか。】
【逆から考えてみよう。もし自分がないなら、そこには自分はないのだから、「自分がない」と考えている自分もないはずだね。だから、やっぱり「自分がない」と自分が考えることできないということになる。自分がないということを考えることができないということは、ひょっとしたら、自分は死ぬということはない、自分は死なない、ということなんじゃなかろうか。】
【自分がないということを考えることができないということは、ひょっとしたら、自分は死ぬということはない、自分は死なない、ということなんじゃなかろうか】
このような荒唐無稽な命題に対して、それを否定する説明をすることもなく、次のように締めくくっている。
【さあ、君は、死のことなんか、まるっきり知らないということに気がついたかな。そりゃ当たり前なんだ。だって君は生きているんだもの。生きている人が死のことを知らないのは当たり前なんだ。なのに世の中の人はほとんど、この知らないことを知っていると思って生きているんだ。じゃあ、誰もが知っていると思っているこの「生きている」ということは、死を知らないとしたら何を言っていることになるのだろう。自分で考えてごらん。当たり前のことを考えるよりも面白いことはないのだから。】
このようなわけのわからないことを言って、14 歳の子供たちを煙に巻いて何を考えさせようというのだろう。【「自分がない」ということを考えようとすると、「自分がある」ことに気がつく】のは、「考える」という行為が主観(自分)の働きであるのだから、「自分がない」ということに限らず、何かを考えようとすると、「自分(主観)がある」というのは、当たり前のことにすぎない。このことから、【自分がないということを考えることができないということは、自分は死ぬということはない、自分は死なない】などという馬鹿げた結論が導き出されるはずもない。
そもそも、子供たちにこのようなことを説き聞かせて、何になるのだろう。哲学的に無防備な子供たちに、健全な考え方の指針を指し示すこともなく、死を語ることはむしろ害が多いだろう。昨今の子供たちの自殺やいじめの問題などを考えても、子供たちに必要なことは、命の大切さや、命を絶つことが取返しのつかないことなどを実感として理解させることだ。先のようなわけの分からない議論を提示して、死をことさらに難しく考えさせる必要はないであろう。
子供たちが身を持って実感すべきことは、他人も自分と同じように心を持っていること、みんな幸せに暮らしたいと思っていることであり、人の命はたったひとつのもので、それが失われた後で、周りのものがどんなに悔やんでも取返しがつかないという単純な現実だ。考えてもわからない死後の世界を語る必要もない。
14 歳の子供たちは、命の大切さや、死というものを、観念としては知っている。しかし、彼らは人生については、まだ何も知らないし、命の大切さや、命を絶つことが取返しのつかないことなどを実感として理解していない。わずかな知識と、短い過去の経験から、それを理解している子供はむしろ少ないと言ってもよいだろう。
いじめや自殺の背景には、子供たちが精神的に満たされない状況に置かれていることがあるのではないだろうか。学校教育や家庭において、幸福や希望を見出せない子供たちは、自分の命の尊さを理解できないし、ましてや他人の命の尊さを理解することはできない。貧しい国々において、貧困の中から、テロの大義と死後の幸福という教えのために、自爆テロで命を捨てることを恐れない若者が後を絶たないのも同様である。テロの解決のためには貧困の解決が必要だろうし、いじめや自殺の問題を解決するためには、子供たちが精神的に精神的に満たされない状況を改善することが必要だろう。人々は平和な生活や家庭があってこそ、自分の命の尊さや他人の命の尊さを知るのではないだろうか。